東京都文京区向丘2丁目にある風雅さを漂わせながら、チャペルのような堂に大観音が安置されるのが光源寺。江戸時代から知られる駒込大観音は、東京大空襲で焼失しましたが平成5年に復興したもの。寺は、天正17年(1589年)、神田四軒町に創建され、江戸城拡張に伴い、慶安元年(1648年)に現寺地に移転しています。
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東京都文京区向丘に建つ蓮光寺は、慶長6年(1602年)に湯島に創建し、明暦の大火で現在の寺地に移ったという浄土宗の寺。現在の文京区小日向(こひなた)に下屋敷を有した大垣藩主・戸田家の墓所にもなっていますが、境内入口近くの墓地には江戸時代の北方探検家・最上徳内(もがみとくない)の墓があります。
江戸時代後期の経世家、農政家、二宮尊徳(二宮金治郎)。相模国足柄上郡栢山村(現・神奈川県小田原市栢山)に生まれ、小田原藩の藩命で下野国芳賀郡桜町の再建などに活躍し、安政3年10月20日(1856年11月17日)、下野国都賀郡今市村(現・日光市今市)で没。墓所は、東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺です。
東京都文京区本駒込3丁目にある曹洞宗の名刹、吉祥寺(きちじょうじ)の境内にある大仏。享保7年(1722年)鋳造の青銅製の釈迦如来坐像で像高2.93m、総高4.17m。鋳造したのは「神田鍛冶町鑄物師 河合兵部 永田喜右衛門」と蓮台に彫られていますが寄進者は明らかではありません。
東京都文京区本駒込3丁目にある曹洞宗の古刹、吉祥寺(きちじょうじ)。長禄2年(1458年)、河越城(川越城)、岩槻城、そして江戸城を築城したことで有名な太田道灌(おおたどうかん=太田持資)が江戸城内に開いたという由緒のある寺です。江戸城築城で水道橋に移され、明暦の大火で駒込の現寺地に移っています。
元和年間(1615年~1624年)、万行が伊勢国(三重県)赤目山で、不動明王像を授けられ、駒込村の現在の動坂沿いに庵を開き赤目不動と号したのが始まりというのが文京区本駒込の南谷寺(なんこくじ=目赤不動)。目黒、目白、目黄、目青、そして目赤不動の江戸五色不動のひとつ。
社伝によれば文治5年(1189年)、源頼朝の奥州藤原征伐の際、夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、藤九郎盛長に命じてその場所を探した所、松に神宮大麻(じんぐうたいま、正確には「おおぬさ」=神札)がかかっているのを発見、社を築いたのが始まりという。江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込の総鎮守社でした。
天正元年(1573年)に本郷に築かれた冨士大権現(神仏習合時代の名称)が、加賀藩上屋敷の敷地となったため、寛永5年(1628年)頃、日光御成道沿いの現社地に遷座したのが駒込富士神社。本殿は大きな富士塚の頂きに鎮座しています。駒込富士の斜面にはわざわざ富士山から運んだ溶岩が配されています。
東京都台東区今戸にある古社が今戸神社で、近年、境内に多くの招き猫が奉納され、縁結びの社として人気急上昇。平安時代後期の康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の際に、京の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の分霊を勧請して創建と伝えられています。浅草七福神のひとつ福禄寿が祀られています。
西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられたのが上野の山の寛永寺。寛永2年(1625年)、慈眼大師・天海大僧正の創建で、その中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂です。往時には今の上野公園の大噴水の地に建っていましたが、幕末の上野戦争で焼失。現在地に移転再建されています。
日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)により、安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港すると、現在の日本大通りの西側に居留地が設けられますが、その海岸沿いの道がBUND(海岸通り)。関東大震災後に海岸は瓦礫で埋め立てられ、跡地が公園となって山下公園通りが生まれました。「日本の道百選」にも選定されています。
東京都港区元赤坂にある曹洞宗の寺、豊川稲荷東京別院。愛知県豊川市にある有名な豊川稲荷の東京別院です。豊川稲荷は神社ではなく、豊川稲荷妙厳寺という寺で、東京別院はその唯一の直轄寺院。もともと時代劇の『大岡越前』で知られる大岡忠相(おおおかただすけ)の江戸屋敷の邸内にあった屋敷稲荷がルーツです。
東京都港区元麻布1丁目にある浄土真宗本願寺派の寺、麻布山善福寺。背後は高台となった元麻布の高級住宅街、大使館街。寺伝によれば天長元年(824年)に空海(弘法大師)創建といい、都内では、浅草寺、深大寺に次ぐ古刹。越後国国府(現、新潟県上越市)に配流になっていた親鸞が、鎌倉時代に浄土真宗に改宗したと伝えられています。
横浜開港にあたり、吉田屋新田(現在の横浜スタジアム、横浜公園一帯)に外国人と日本人の両方が使えるという港崎遊郭を設置しましたが、その遊郭街が慶応2年10月20日(1866年11月26日)火事で焼失。防火対策として英国人R.H.ブラントンの設計によりその跡地が公園となり、明治10年、日本大通りが誕生しました。
横浜スタジアムのある横浜公園一帯は、幕末までは横浜村の海岸部で、安政3年(1856年)に埋め立てられた太田屋新田で陸に。その後、開港とともにさらに埋め立てられて港崎町(みよざきちょう)となり、その一画に港崎遊郭がつくられました。岩亀楼の石灯籠は、とくに豪華だった岩亀楼に置かれた石灯籠で、開国期の貴重な歴史遺産のひとつ。
慶応3年(1867年)、開港場となった横浜の馬車道では、沿道の各商店が競って柳と松を植栽。日本での近代的な街路樹の先駆となり、明治5年、日本最初のガス灯導入で、さらに美しい街路となります。関内駅近くの馬車道広場には「近代街路樹発祥之地」の記念碑が建てられています。
横浜市内では山手公園の次に古い西洋式公園が横浜スタジアムがある横浜公園。実は、ここが日本人に開放された日本初の公園。しかも日本初の野球の国際試合が行なわれた公園にもなっています。文化庁の登録記念物で、「旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る」として経済産業省の近代化産業遺産群に登録。
横浜の馬車道にあるのが「日本最初のガス灯」記念碑と復刻されたガス灯。「横浜の父」ともいわれ、易によって運勢・吉凶などを判断する高島易断(たかしまえきだん)としても知られる高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、明治5年9月29日に馬車道、本町通りなどにガス灯を設置しました。これが日本初のガス灯です。