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岩亀楼の石灯籠(横浜公園)

横浜スタジアムのある横浜公園一帯は、幕末までは横浜村の海岸部で、安政3年(1856年)に埋め立てられた太田屋新田で陸に。その後、開港とともにさらに埋め立てられて港崎町(みよざきちょう)となり、その一画に港崎遊郭がつくられました。岩亀楼の石灯籠は、とくに豪華だった岩亀楼に置かれた石灯籠で、開国期の貴重な歴史遺産のひとつ。

横浜公園の日本庭園の灯籠は、横浜の開国時代の負の歴史を伝える

歌川芳虎画『神奈川横浜港崎町遊女屋之風景』
横浜岩亀楼之図

横浜村を流れる大岡川下流、西に深く入り込んだ入江だった地。
幕末に三河国碧海郡川島村(現・愛知県安城市)の太田佐兵衛が、久良岐郡横浜浦で新田開発を計画。
讃岐国の象頭山の金毘羅大権現に祈願し、苦労の末、安政3年(1856年)3月、太田屋新田の造成に成功。
新田総鎮守として、分霊を勧請したのが現在の岡野神社(横浜市西区岡野)だという。

安政6年6月2日(1859年7月1日)、横浜港が開港すると、横浜村を開港地とすることに反対する外国人たちの説得材料の一つとしてオランダ公使から遊郭の開設が提案され、品川宿の岩槻屋佐吉が埋め立てを請け負って、1万5000坪の港崎遊郭(みよざきゆうかく)が誕生しました。

これが現在の横浜スタジアム、横浜公園のある一帯です。
構造は江戸の吉原遊郭を、外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本に、遊女屋15軒、遊女300人などを抱えていました。

港崎遊郭でもっとも豪華だったのが「岩亀楼」

歌川貞秀(五雲亭貞秀)の描いた開港当初の横浜と港崎遊郭
歌川芳員が描いた岩亀楼に遊ぶ外国人

港崎遊郭で名主となったのが埋め立てを担った岩槻屋佐吉。
もっとも豪華な遊女屋の「岩亀楼」(がんきろう)を経営し、昼間は一般庶民に見物料を取って内部の見学をさせていました。
岩亀楼の灯籠は、妙音寺(横浜市南区)に移設されていましたが、横浜開港資料館へ寄贈され、横浜公園内に設置されたもの。

「岩亀楼」の遊女が、静養のため利用した寮が岩亀横丁にあり、その寮内にあって遊女たちが参拝した稲荷が岩亀稲荷として横浜市西区戸部町4丁目に現存しています。

また、文久2年(1863年)、岩亀楼の遊女、亀遊(きゆう)がアメリカ商人イルウスの一夜妻を店主から命じられたのを拒み、「露をだにいとう大和の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ」の句を残して自害したとされ、有吉佐和子の小説『亀遊の死』、そして有吉佐和子自らが戯曲化して杉村春子が演じる文学座『ふるあめりかに袖はぬらさじ』として上演されています。
ただし、8歳で吉原に売られ、15歳で遊女となった亀遊が読み書きができ、句を残すとも考えにくく、尊皇攘夷派の学者・大橋訥庵の創作だとする可能性が大と推測されています。

外国人、日本人の両方を対象とした港崎遊郭は、慶応2年10月21日(1866年11月26日)の豚肉料理屋鉄五郎宅から出火した豚屋火事で焼失したため(遊女400人以上が焼死)、慶應3年(1867年)に移転。
火事の2年前に居留民と幕府との間で交わされた『横浜居留地覚書』に「大火があった場合は再建しない」との条項があり、吉田新田に吉原遊郭を築いて移しています(遊郭はその後、高島町に移転して高島町遊郭、さらに永真遊郭街と変遷しています)。

 

岩亀楼の石灯籠(横浜公園)
名称 岩亀楼の石灯籠(横浜公園)/がんきろうのいしどうろう(よこはまこうえん)
所在地 神奈川県横浜市中区
関連HP 横浜市公式ホームページ
電車・バスで JR・横浜市営地下鉄関内駅から徒歩3分。みなとみらい線日本大通り駅から徒歩3分
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ランプからすぐ
駐車場 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)
問い合わせ 横浜市南部公園緑地事務所 TEL:045-671-3648
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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作成者: プレスマンユニオン編集部

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