下総国の国府の遺構はまだ見つかっていませんが、下総国の総社があったのは、かつて六所の森と呼ばれた一帯(現在の市川市スポーツセンター野球場一帯)。現在もその跡地とされる場所が特定されています。では、国府(国庁)はどこにあったのでしょうか!? 総社、国分寺、国分尼寺などを訪ね歩きましょう。
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奈良時代、下総国(しもうさこく)の国府(こくふ=現在の県庁)は現在の市川市国府台に設置されました。そして派遣された国司が参拝する神社として、下総国の総社として創建されたのが、六所神社です。規模は大きくありませんが古代からの超パワースポットといえる市川市に鎮座する古社です。
741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分尼寺(法華滅罪之寺)のひとつ。発掘調査で金堂・講堂の基壇が確認されるとともに「尼寺」と墨書された土器が出土しています。寺域は東西340m、南北300mにも及び、一帯は市川市営の国分尼寺跡公園として整備されています。
741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつで市川市国分にあります。寺域は東西300m、南北350mにも及び、国庁(現在の市川市国府台にあったと推測されています)とともに古代にはその下総国の最大の建築物でした。
古代には下総国の国府があった市川市にある寺で、前身は、741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)。平安時代に、国分寺は衰退し、その後真言宗豊山派の寺として再興しました。山号も国分山で、市川七福神の毘沙門天を祀っています。
741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分尼寺(法華滅罪之寺)のひとつ。諸国に建立された初期の国分尼寺としては最大規模を誇っています。回廊など一部の建物が復元されるほか、金堂の基壇なども復元。ガイダンス施設として上総国分尼寺跡展示館があり、展示館の開館時間のみ見学が可能となっています。
741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつ。国庁とともに上総国の最大の建築物で、中門、金堂、講堂が南北に一直線に並び、中門左右から出た回廊が金堂に達し、回廊で囲まれた方形の区画の東側に塔が建つ大官大寺式の伽藍配置だったことが判明しています。
前身は、741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)。往時の上総国分寺は伝承では平将門(たいらのまさかど)の乱で焼亡し、室町時代までに荒廃。現在の国分寺は、元禄年間(1688年〜1704年)に僧快応が再興した真言宗豊山派の寺です。
市原市役所周辺の台地は古代の上総国(かずさのくに)の政治、文化の中心地。741(天平13)年、聖武天皇の詔によって全国に造営された国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)は、現在の市役所周辺で遺構が発見されています。その遺物を展示しするのが上総国分尼寺跡の復元建築のビジターセンターにもなっています。
農林水産省の「日本の棚田百選」に選定された鴨川市の棚田。鴨川市を東西に貫く嶺岡山系の北側に位置する棚田で、房総半島ではもちろん、関東地方でも珍しい海岸部の棚田です。棚田の完成は江戸時代以前と推測され、NPO法人大山千枚田保存会により保全される棚田は3.2ha、標高差60mに375枚。
昭和32年、谷津遊園内に開園した「東洋一の大バラ園」が前身。昭和57年、谷津遊園の閉園にともないバラ園も閉鎖されましたが、昭和63年に習志野市の都市公園として復活。
習志野市の海に突き出した埋め立て地の海岸部にあるのが茜浜緑地。その緑地の一部を緑道として活用しています。東京湾を一望にするビューポイントで、東側には幕張メッセの高層ビル群を眺望。
稲毛海浜公園の中央にある千葉市花の美術館は、ネーミングライツで「三陽メディアフラワーミュージアム」と呼ばれています。平成7年に行なわれた『第12回全国都市緑化ちばフェア』のテーマ館「花の美術館」を、千葉の緑化普及の拠点として公開したもの。
南房総市の千倉にある神社で、「料理の祖神」であるといわれる磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)を祀る神社として料理関係者や味噌醤油醸造業者などから崇敬されています。
千葉県屈指のパワースポットが市原市にある高瀧神社。高瀧神社の創建年代は不詳ですが、9世紀の記録である『日本三代実録』に記載のある古社。社伝によれば7世紀の創建。春季例大祭(4月)の花嫁まつり、秋季例大祭(10月)の流鏑馬、神輿の渡御は有名です。
意富比神社(おおひじんじゃ)が正式名ですが、船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)と通称される、平将門、源頼朝、徳川家康ゆかりの名社です。社伝によれば、日本武尊の東征の折に祈願したことがルーツで、延喜式神名帳に「葛餝郡意富比神社」として記載される古社。
久留里城の二の丸跡(標高128m)に昭和54年に開館した資料館。久留里城と君津市の歴史・文化・自然に関する資料を展示しています。屋外には明治中期に君津地方で考案された掘抜(ほりぬき)井戸の掘削技術を伝える「上総掘り」の足場(櫓)も復元されています。
久留里市街の東に位置する標高140mほどの尾根筋を利用した山城で、戦国時代には上総に進出した里見氏の小田原北条氏に対する軍事拠点となった場所。最初の築城は、上総武田氏の祖・武田信長が1455(康正1)年に上総守護代に任ぜられた直後と推測されています。