江戸時代末期には半農半漁100戸ほどの小さな村だった横浜。黒船が来航し開いた港には、西洋文化がどっと上陸。それまで乗り物といえば駕籠(かご)だった日本で、関門のあった吉田橋と居留地を結ぶ馬車を通すために造成されたのが馬車道です。馬車道には「日本初」というものが多く、たとえば明治5年に初点火したガス灯もそのひとつ。
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横浜港近くにある中世鎌倉、戦国後北条、開国と文明開化などを解説する県立の博物館が神奈川県立歴史博物館。旧館部分は明治37年11月に建てられた旧横浜正金銀行本店で、ネオ・バロック様式の建物は国の重要文化財。平成30年4月に耐震工事を終え、リニューアルオープン。
横浜開港にあたり、吉田屋新田(現在の横浜スタジアム、横浜公園一帯)に外国人と日本人の両方が使えるという港崎遊郭を設置しましたが、その遊郭街が慶応2年10月20日(1866年11月26日)火事で焼失。防火対策として英国人R.H.ブラントンの設計によりその跡地が公園となり、明治10年、日本大通りが誕生しました。
慶応3年(1867年)、開港場となった横浜の馬車道では、沿道の各商店が競って柳と松を植栽。日本での近代的な街路樹の先駆となり、明治5年、日本最初のガス灯導入で、さらに美しい街路となります。関内駅近くの馬車道広場には「近代街路樹発祥之地」の記念碑が建てられています。
横浜市内では山手公園の次に古い西洋式公園が横浜スタジアムがある横浜公園。実は、ここが日本人に開放された日本初の公園。しかも日本初の野球の国際試合が行なわれた公園にもなっています。文化庁の登録記念物で、「旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る」として経済産業省の近代化産業遺産群に登録。
横浜の馬車道にあるのが「日本最初のガス灯」記念碑と復刻されたガス灯。「横浜の父」ともいわれ、易によって運勢・吉凶などを判断する高島易断(たかしまえきだん)としても知られる高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、明治5年9月29日に馬車道、本町通りなどにガス灯を設置しました。これが日本初のガス灯です。
横浜中華街の一画、横浜中華学院脇を通る関帝廟通り沿いに立つのが「日本における新聞誕生の地」碑。この場所で元治元年(1864年)6月28日、ジョセフ・ヒコ(ジョセフ彦=浜田彦蔵)が、外国新聞を翻訳編集し、日本初の邦字新聞『海外新聞』を発刊しています。
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が横浜村(現・横浜市)の海岸近くで日米和親条約を締結しました。その歴史的な場所が、現在の大桟橋通りが海岸に出るところ、大さん橋ふ頭の付け根に園地として残され、横浜開港資料館前の園地に「日米和親条約締結の地」碑が立っています。
日本のパン文化は、安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって日本に伝来。だからブレッドではなく、ポルトガル語のパン(pão)に由来する言葉に。しかし、開国以降の近代では、横浜の居留地で文久元年(1861年)に「お貸長屋」(現在の横浜開港資料館周辺)で内海兵吉が和風パン屋「富田屋」を開業したのが日本のパンのはじめて物語。
横浜港郵便局は、明治4年3月1日(1871年4月20日)、開港された横浜港の横浜郵便取扱所として開設された歴史ある郵便局。明治8年1月1日に 横浜郵便局(一等)となり、為替取扱、アメリカとの外国郵便を開始した外国郵便発祥の地です。歴史ある横浜郵便局は、昭和42年に横浜港郵便局と改称されています。
山下公園の一角に「ZANGIRI」と刻まれた白亜の像が立っています。意外に知られていませんが、これが西洋理髪発祥の地碑。日本初の西洋理髪店(理容室=Hair Dressing salon)は、元治元年1月下旬(1864年3月)に外国人居留地(山下居留地)70番で誕生。「西洋理髪店事始め」は横浜の居留地だったのです。