文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社(すさきじんじゃ=館山市洲崎)から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)を勧請して祀り、品川大明神としたのが始まりという古社。東京十社のひとつで、東海七福神の大黒天を祀っています。
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社伝によれば文治5年(1189年)、源頼朝の奥州藤原征伐の際、夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、藤九郎盛長に命じてその場所を探した所、松に神宮大麻(じんぐうたいま、正確には「おおぬさ」=神札)がかかっているのを発見、社を築いたのが始まりという。江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込の総鎮守社でした。
源頼朝が石橋山の戦いに破れ、命からがら手勢を引き連れて房総半島へと逃れますが、その時上陸した地点には諸説あり定かでありません。そのなかで最有力で、千葉県も「源頼朝上陸地」と認定するのが鋸南町竜島です。上陸した地と推測される海岸には「県指定史跡源頼朝上陸地」が立っています。
古代に阿波国(あわのくに=現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(いんべうじ)が創建と伝わる古社で、安房国の一之宮。主祭神は忌部氏の祖神、天太玉命 (あめのふとだまのみこと)。創建時は布良浜(現在の布良崎神社)に鎮座していましたが、717(養老元)年、現在の社地に遷座しています。
1180(治承4)年、伊豆で以仁王(もちひとおう=後白河天皇の第三皇子)の令旨を奉じて平家打倒の兵を挙げた源頼朝でしたが、相州石橋山の合戦(神奈川県小田原市)で大敗。箱根山から真鶴半島へ逃れ、船を仕立てて真鶴岬の岩の浦(当時は真名鶴岬)から安房へと落ちのびる。安房での上陸地とされるのが館山市、洲崎にある矢尻の井戸。
房総半島西の突端、浦賀水道に突き出したのが洲崎(すのさき)の岬。そんな岬に鎮座する洲崎神社の祭神は、天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)。安房神社(あわじんじゃ)祭神の天太玉命(あめのふとだまのみこと=阿波から移住し安房を開いたと伝わる忌部一族の祖神)の后神(きさきがみ)です。
安房の国の神々を集めて祀った総社。平安時代の初め、安房国総社として国府のあった国府村(現・南房総市府中)に創建され、鎌倉時代に源氏の氏神である八幡宮に変わり現社地に遷座しています。源頼朝が安房国で再起の際には、この社に武運長久祈念し、源実朝(みなもとのさねとも=頼朝の四男・鎌倉3代将軍)が社殿を造営と伝えられています。
千葉県館山市の那古にある奈良時代創建という古刹。『那古寺縁起』によれば、717(養老元)年に行基(ぎょうき)が創建したと伝えられる真言宗智山派の寺です。かつては源頼朝、足利氏、里見氏らの信仰を集め、源頼朝が本尊の千手観音に帰依して七堂伽藍を建立。江戸時代には、鶴岡八幡宮の別当を兼ねて隆盛しました。
鴨川市にある外房屈指の絶景ポイントが魚見塚展望台。魚見という名の通り、かつて沖合に、魚の群れが来るのを漁師たちが見張ったことが名の由来です。それだけ海の眺めがいい場所ということで、リアス式海岸の外房の入り組んだ海岸線を眺める絶好の展望スポットになっています。
平安時代初めの808(大同3)年、富士宮の富士山本宮浅間大社の分霊を勧請して創建したという古社。1180(治承4)年には源頼朝が東六郎胤頼を使者に武運長久を祈願しています。1187(文治3)年には富士山の形に盛土を行ない、富士登山同様に3方向から参道を延ばし、東京湾を隔てて富士山と向かい合うように社殿を建立しています。
亥鼻(いのはな)は猪の鼻のように突き出した地形という意味。都川河口に突き出した台地の上に千葉氏の居館だった亥鼻城(千葉城)があり、千葉発祥の地となっています。源頼朝の重鎮だった千葉常胤(ちばつねたね=一の谷合戦、奥州藤原氏討伐などに参戦)の父・常重が1126(大治元)年に居館を構えたのが始まり。
君津市に鎮座する三島神社の祭礼の際、4地区(宿原・奥米・豊英・旅名)の氏子たちによって奉納されるのが棒術と羯鼓舞(かっこまい)。棒術は源氏の武術鍛錬にも関わる歴史あるもので、羯鼓舞は農民の雨乞いの儀式とか。千葉県の無形民俗文化財に指定されています。