文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社(すさきじんじゃ=館山市洲崎)から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)を勧請して祀り、品川大明神としたのが始まりという古社。東京十社のひとつで、東海七福神の大黒天を祀っています。
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東京都文京区小石川の高台にある寺で、正式名は無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)ですが、一般に小石川の伝通院(でんづういん)と呼ばれています。伝通院という寺の院号は、徳川家康の生母・於大の方の法名「伝通院殿」にちなんだもので、徳川家康は母の遺骨を、三河国の安楽寺(現・蒲郡市)から移しています。
江戸城の二の丸と本丸の間を東西に隔てる濠(ほり)が白鳥濠(はくちょうぼり)。南北に長く伸びて本丸を守るかたちになっています。濠の北側は汐見坂で、築城初期にはこの坂から日比谷入江を眺めました。白鳥濠は、完全に独立した濠で、濠に湛える水は湧き水と雨水のみになっています。家康時代に積まれたという石垣も必見です。
江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓です。現存する三重櫓は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)での焼失後、1659(万治2)年の再建。どの角度から見ても同じような形に見えることから、「八方正面の櫓」の別名がありました。天守焼失には天守の役目を果たした「代用天守」の櫓ともいわれています。
中央区日本橋室町のオフィス街に鎮座する古社。社殿は、三井不動産の「日本橋再生計画」のメイン事業である「日本橋室町東地区開発計画」で新築され、隣接地に現代版の鎮守の森として「福徳の森」もつくられています。夜間には「仲通り」「浮世小路」(うきよしょうじ)と一体的なライトアップも実施され、幽玄な空間が生み出されています。
太田道灌の江戸城築城の際に、川越喜多院に祀られた日吉社(山王権現)を勧請して創建。家康が江戸城の鎮守としました。2代将軍・徳川秀忠が江戸城外の麹町隼町に遷し、庶民の信仰が始まりました。国宝だった社殿は戦災で失いましたが、今も東京の総氏神として親しまれています。
東京で出世祈願のパワースポットといえば、江戸の昔から愛宕山の「出世の石段」。この「出世の石段」には、この石段を馬で駆け上がったという勇壮な武士の美談が残されています。その愛宕山には江戸時代、家康が京の愛宕山(あたごやま)から勝軍地蔵(将軍地蔵)を勧請したことに始まるパワースポットです。
徳川将軍家の菩提寺として有名。寺としての歴史は古く、その創建は1393(明徳4)年まで遡ります。徳川家康の菩提寺として芝に移されてからは、東国随一の浄土宗寺院として繁栄を続けてきましたた。東京大空襲の戦火でほとんどの建物を焼失してしまいましたが、三門(三解脱門)などが現存。
徳川家康が江戸入府の際、最初に参詣した寺といわれるのが増上寺。江戸時代には徳川家の祈願寺、菩提寺として繁栄しました。往時には武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)にありましたが、江戸城の拡張で家康により芝に遷されています。芝・増上寺では大晦日から元日にかけて各種法要、御祈願を実施。
亥鼻(いのはな)は猪の鼻のように突き出した地形という意味。都川河口に突き出した台地の上に千葉氏の居館だった亥鼻城(千葉城)があり、千葉発祥の地となっています。源頼朝の重鎮だった千葉常胤(ちばつねたね=一の谷合戦、奥州藤原氏討伐などに参戦)の父・常重が1126(大治元)年に居館を構えたのが始まり。
船橋大神宮秋の『例大祭』の奉納相撲は、天正18年(1590年)、相撲好きな徳川家康の前で披露したのが始まりという、関東でも屈指の草相撲大会。有名な大坂冬の陣が起きた慶長19年(1614年)頃、家康は上総土気(かすざとけ=千葉市緑区土気町)、東金周辺に鷹狩に出掛ける際の宿泊施設として現在の船橋駅近くに船橋御殿を築造しています。