船橋大神宮秋の『例大祭』の奉納相撲は、天正18年(1590年)、相撲好きな徳川家康の前で披露したのが始まりという、関東でも屈指の草相撲大会。有名な大坂冬の陣が起きた慶長19年(1614年)頃、家康は上総土気(かすざとけ=千葉市緑区土気町)、東金周辺に鷹狩に出掛ける際の宿泊施設として現在の船橋駅近くに船橋御殿を築造しています。
家康、秀忠、家光の3将軍は船橋にあった御殿に宿泊!
鷹狩(たかがり)というのは、軍事訓練、そして江戸周辺の視察を兼ねて行なわれていました。慶長13年(1608年)、駿府城(現・静岡県静岡市)に隠居してからは、田中城などに足を伸ばし駿河で盛んに鷹狩を行なっています。
生涯1000回もの鷹狩をしたと伝わる家康ですが、江戸に幕府を開くと、早速、武蔵国川越、浦和、越谷、そして上総国土気(とけ)、下総国(しもうさこく)東金に御鷹場を設けています。
船橋大神宮秋の『例大祭』の奉納相撲ですが、天正18年(1590年)12月13日に、家康は東金あるい土気で鷹狩をしているので、この時に船橋大神宮に参拝し、相撲を観賞した推測できます。翌年の天正19年(1591年)にも家康は東金で鷹狩を行ない、小田原藩主・大久保忠隣(おおくぼただちか=謀反の疑いをかけられていました)の改易という裁定を下しています。
船橋に御殿が築かれた年号は定かでなく、関東代官・伊奈忠政(いなただまさ)に命じて築いていることを推測すると(伊奈忠政は大坂冬の陣に参陣し、大坂城の外堀を埋め立てる普請奉行を務めているので)、慶長17年(1612年)頃、建築が始まったと考えるのが素直でしょう。
鷹狩のために家康、側近で老中、そして佐倉藩主でもある土井利勝(どいとしかつ)に命じて昼夜を問わない突貫工事で造らせたという東金御成街道(とうがねおなりかいどう)は、慶長19年(1614年)正月に着工し、数ヶ月間かけて元和元年(1615年)11月に完成したといわれ、あるいは、この突貫工事と同時に船橋御殿も建築されたのかもしれません。
ちなみに土井利勝は、慶長16年(1611年)に佐倉城の築城に取り掛かり、元和3年(1617年)に完成していますから、東金御成街道もほぼ同時期の工事となっています。
元和元年(1615年)11月、徳川家康は御成街道で東金方面に向かう途中、船橋御殿に宿泊。家康が駿府に隠居していたこともあって船橋御殿宿泊はこれが最初にして最後となりますが、2代将軍・徳川秀忠、そして3代将軍・徳川家光は、鷹狩の際には度々、船橋御殿に立ち寄ったと伝えられています。
徳川秀忠は、慶長10年(1605)年、4月16日に征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けていますが、4月25日には上総国で鷹狩を行なっています。
将軍家による東金での鷹狩が、寛永7年(1630年)頃に終止した後も船橋御殿は存続し、手狭になったためか家光在職中の寛永13年(1636年)には増築もされています。
そんな船橋御殿ですが、家光は遠出を好まず、日帰りの鷹狩に興じ、4代将軍・徳川家綱以降は東金での鷹狩は行なわれなくなったため、寛文11年(1671年)には、御殿廃止となりました。
船橋御殿跡の中心部には船橋東照宮が
貞享年間(1684年~1688年)に船橋大神宮神職の富氏に払い下げられ、は御殿跡の中心部に家康を祀る東照宮が建立されています。
現存する東照宮の社殿は、安政4年(1857年)の再建で、昭和2年に修築されたもの。
地元の人は祀られる東照大権現(とうしょうだいごんげん=家康の神号)から「権現様」と呼んでいます。
「日本一小さい東照宮」とも呼ばれていますが、たしかに取材した全国の東照宮の中で、規模は最小。
船橋市教育委員会によれば、船橋御殿は面積1万2000坪という広大な敷地で、海老川西側の土手に囲まれた地域でした。
船橋東照宮周辺に御殿時代の遺構は残されていませんが、愛染山延命寺金光院に御殿の裏門が移築され、将軍が使ったという什器が伝わっています。
金光院に伝わる什器は、元和元年(1615年)11月16日、家康が2度目に東金への鷹狩の途中に宿泊した際に使われたものとのこと。
船橋東照宮(船橋御殿跡) DATA
名称 | 船橋東照宮(船橋御殿跡)/ふなばしとうしょうぐう(ふなばしごてんあと) |
所在地 | 千葉県船橋市本町4-29 |
営業時間 | 参拝自由 |
電車・バスで | 京成船橋駅から徒歩5分 |
ドライブで | 京葉道路船橋ICから7分。または、花輪ICから8分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 船橋市教育委員会文化課TEL:047-436-2894/FAX:047-436-2884 |
関連HP | 船橋市公式ホームページ |
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