江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓です。現存する三重櫓は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)での焼失後、1659(万治2)年の再建。どの角度から見ても同じような形に見えることから、「八方正面の櫓」の別名がありました。天守焼失には天守の役目を果たした「代用天守」の櫓ともいわれています。
将軍はこの櫓から富士を望み両国の花火を観賞!
富士見櫓の上からは、その名の通り富士山をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾(品川沖など=現在の東京港)、さらには将軍は両国の花火などを眺望したのです。
富士見櫓が建つ場所は、天守台(標高30mほど)についで高い場所(標高23mほど)に位置し、眺望的には江戸城のなかでも一等地で、徳川家康の江戸城築城以前、太田道潅の築城した望楼式の「静勝軒」があったのは、この富士見櫓の場所ではないかと推定されています。
「わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」という歌を太田道灌が残しているからです。
平成28年秋に富士見櫓前に広場が整備され、従来よりもより間近で櫓を鑑賞できるようになっています。
石垣は主に伊豆の自然石を野面積み(のづらづみ=自然石をそのまま積み上げた石垣)で、シンプルながら関東大震災でも崩れなかった堅牢さを誇り、加藤清正の普請(ふしん=建築)と推測されています。
石垣上には、石落し仕掛けが設けられています。その南側の屋根が描く曲線はとても優美で、見られることを強く意識したデザインになっています。
石垣の高さは14.5m、櫓の高さは15.5m。櫓は大正12年の関東大震災で損壊しましたが、大正14年に補修されています。
明治初年には本初子午線の基準、三角点も置かれていた
往時には江戸城には19の櫓(やぐら)を構えていましたが現存するのは、伏見櫓、桜田巽櫓(さくらだたつみやぐら)、富士見櫓の3ヶ所だけ。
江戸時代中期以降、お茶壺道中(宇治採茶使=幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事)で運ばれた宇治茶は富士見櫓に収められています(『御茶壺江戸着御宝蔵江入組頭請取図』による)。
1868(慶応4)年、幕府軍(上野彰義隊)との戦いで指揮官・大村益次郎は、富士見櫓から上野・寛永寺の堂塔が炎上するのを見て勝利を確信したといわれています。
明治4年、明治新政府は本初子午線の基準を京・改暦から富士見櫓に移し(明治19年、国際基準のグリニッジ子午線を採用)、明治5年、工部省測量司が開始した三角測量の三角点を府内13か所の最初に富士見櫓に置いています。
八十八夜に近づくと、徳川幕府は宇治から茶葉の生育状況の報告を受け、茶壺付添人ら(8人〜14人)が茶壺ともに江戸を出発。採茶師が宇治に到着して9日目から茶道頭立ち会いのもとで茶詰めが始まり、茶詰めを終えると茶壺は封印。羽二重で丁寧に包み、その上を綿入れの帛紗(ふくさ)で覆って、箱の中に納めて駕籠(かご)で移送しました。茶壺道中が通る際に、農民は仕事を休み、宿場は掃き清められました。その駕籠に出会った大名は、駕籠から下りる必要すらあったのです(茶壺道中の権威は勅使、院使、御名代、上使に次ぎ、御三家御三卿の上とされていました)。
「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら、どんどこしょ」は、忙しい農作業を休むという風刺が込められてるのです。
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古地図&絵図に見る富士見櫓
江戸城 富士見櫓(皇居東御苑) | |
名称 | 江戸城 富士見櫓(皇居東御苑)/えどじょう ふじみやぐら(こうきょひがしぎょえん) |
所在地 | 東京都千代田区千代田1-1 |
関連HP | 宮内庁公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ東西線・都営三田線大手町駅から徒歩6分。東京メトロ東西線竹橋駅から徒歩10分、JR東京駅丸の内北口から徒歩11分 |
駐車場 | なし/大手センターパーキング(185台・有料)など周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 宮内庁 TEL:03-3213-1111 |
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