東京都江東区の夢の島公園内にある東京都立第五福竜丸展示館。ビキニ環礁での水爆実験で死の灰を浴びた遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(140.86t、全長28.56m)を保存展示する施設です。昭和29年3月1日にビキニ環礁(マーシャル諸島共和国)にあった太平洋核実験場での米軍の水爆実験「キャッスル作戦」で被爆した漁船です。
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東京都中央区日本橋に建つ日本銀行本店本館は、明治29年2月29日竣工で辰野金吾(たつのきんご)設計の建物では現存する最古のもの。明治24年に濃尾地震が発生していることから、高橋是清の指示により耐震性にも重きが置かれ、2階・3階はレンガ造り石貼りとなっています。国の重要文化財に指定され、東京の建築遺産50選に選定。
東京都文京区向丘2丁目にある風雅さを漂わせながら、チャペルのような堂に大観音が安置されるのが光源寺。江戸時代から知られる駒込大観音は、東京大空襲で焼失しましたが平成5年に復興したもの。寺は、天正17年(1589年)、神田四軒町に創建され、江戸城拡張に伴い、慶安元年(1648年)に現寺地に移転しています。
東京都文京区向丘に建つ蓮光寺は、慶長6年(1602年)に湯島に創建し、明暦の大火で現在の寺地に移ったという浄土宗の寺。現在の文京区小日向(こひなた)に下屋敷を有した大垣藩主・戸田家の墓所にもなっていますが、境内入口近くの墓地には江戸時代の北方探検家・最上徳内(もがみとくない)の墓があります。
江戸時代後期の経世家、農政家、二宮尊徳(二宮金治郎)。相模国足柄上郡栢山村(現・神奈川県小田原市栢山)に生まれ、小田原藩の藩命で下野国芳賀郡桜町の再建などに活躍し、安政3年10月20日(1856年11月17日)、下野国都賀郡今市村(現・日光市今市)で没。墓所は、東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺です。
東京都文京区本駒込3丁目にある曹洞宗の名刹、吉祥寺(きちじょうじ)の境内にある大仏。享保7年(1722年)鋳造の青銅製の釈迦如来坐像で像高2.93m、総高4.17m。鋳造したのは「神田鍛冶町鑄物師 河合兵部 永田喜右衛門」と蓮台に彫られていますが寄進者は明らかではありません。
東京都文京区本駒込3丁目にある曹洞宗の古刹、吉祥寺(きちじょうじ)。長禄2年(1458年)、河越城(川越城)、岩槻城、そして江戸城を築城したことで有名な太田道灌(おおたどうかん=太田持資)が江戸城内に開いたという由緒のある寺です。江戸城築城で水道橋に移され、明暦の大火で駒込の現寺地に移っています。
元和年間(1615年~1624年)、万行が伊勢国(三重県)赤目山で、不動明王像を授けられ、駒込村の現在の動坂沿いに庵を開き赤目不動と号したのが始まりというのが文京区本駒込の南谷寺(なんこくじ=目赤不動)。目黒、目白、目黄、目青、そして目赤不動の江戸五色不動のひとつ。
社伝によれば文治5年(1189年)、源頼朝の奥州藤原征伐の際、夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、藤九郎盛長に命じてその場所を探した所、松に神宮大麻(じんぐうたいま、正確には「おおぬさ」=神札)がかかっているのを発見、社を築いたのが始まりという。江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込の総鎮守社でした。
天正元年(1573年)に本郷に築かれた冨士大権現(神仏習合時代の名称)が、加賀藩上屋敷の敷地となったため、寛永5年(1628年)頃、日光御成道沿いの現社地に遷座したのが駒込富士神社。本殿は大きな富士塚の頂きに鎮座しています。駒込富士の斜面にはわざわざ富士山から運んだ溶岩が配されています。
東京都台東区今戸にある古社が今戸神社で、近年、境内に多くの招き猫が奉納され、縁結びの社として人気急上昇。平安時代後期の康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の際に、京の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の分霊を勧請して創建と伝えられています。浅草七福神のひとつ福禄寿が祀られています。
西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられたのが上野の山の寛永寺。寛永2年(1625年)、慈眼大師・天海大僧正の創建で、その中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂です。往時には今の上野公園の大噴水の地に建っていましたが、幕末の上野戦争で焼失。現在地に移転再建されています。
東京都港区元赤坂にある曹洞宗の寺、豊川稲荷東京別院。愛知県豊川市にある有名な豊川稲荷の東京別院です。豊川稲荷は神社ではなく、豊川稲荷妙厳寺という寺で、東京別院はその唯一の直轄寺院。もともと時代劇の『大岡越前』で知られる大岡忠相(おおおかただすけ)の江戸屋敷の邸内にあった屋敷稲荷がルーツです。
東京都港区元麻布1丁目にある浄土真宗本願寺派の寺、麻布山善福寺。背後は高台となった元麻布の高級住宅街、大使館街。寺伝によれば天長元年(824年)に空海(弘法大師)創建といい、都内では、浅草寺、深大寺に次ぐ古刹。越後国国府(現、新潟県上越市)に配流になっていた親鸞が、鎌倉時代に浄土真宗に改宗したと伝えられています。
総面積は53haにわたる広大な上野恩賜公園。江戸時代までは徳川家の菩提寺、東叡山寛永寺の境内で、多くの堂塔、塔頭が建ち並んでいた境内でした。不忍池に弁天堂や、上野動物園の中に五重塔があるのもそのため。明治6年に日本初の都市公園に指定。日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選、日本の都市公園100選に選定。
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。浅草観音境内の正智院地内に居を構えてからの約40年間を創作活動に費やしました。明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。浅草・仲見世の仲見世会館入口脇に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が立っています。
東京都文京区大塚5丁目にある真言宗豊山派の大本山が護国寺。正式名は神齢山悉地院大聖護国寺。天和元年(1681年)、5代将軍・徳川綱吉は江戸城三の丸に暮らす生母、桂昌院(3代将軍・徳川家光の側室)の願いから、桂昌院の祈願寺として護国寺の建立を命じ、創建。本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音(秘仏)。
東京都文京区小石川の高台にある寺で、正式名は無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)ですが、一般に小石川の伝通院(でんづういん)と呼ばれています。伝通院という寺の院号は、徳川家康の生母・於大の方の法名「伝通院殿」にちなんだもので、徳川家康は母の遺骨を、三河国の安楽寺(現・蒲郡市)から移しています。