かつうら海中公園海中展望塔に隣接して建つ千葉県立中央博物館の分館が海の博物館。房総の海の自然について紹介し、海の資料館(勝浦海中公園ビジターセンター)とともに南房総国定公園勝浦海域公園のビジターセンター的ミュージアムになっています。
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リアス式海岸が続く千葉県勝浦市、勝浦市街の西、14.5haの勝浦海域公園(旧・海中公園)の中央部に設置されたのが「かつうら海中公園海中展望塔」。海域公園は全国の国立公園、国定公園の海域の景観を維持するため、自然公園法第22条に基づいて設定されるエリア。勝浦は南房総国定公園の海域公園になっています。
横浜・山手地区でもっとも海岸寄りの高台に位置する公園が港の見える丘公園。名前の通りベイブリッジなど横浜港の眺めがよく、夜景の美しいデートスポットとして知られていますが、実は開港の歴史を秘めるエリアにもなっています。公園を歩くときに、横浜開港のドラマチックな舞台となった山手居留地の歴史にもぜひ思いを馳せてみましょう。
安政6年6月2日(1859年7月1日)の開港後、横浜に居留した外国人の墓地として、横浜の発展に尽くした外国人たちが眠る墓地が横浜外国人墓地。もとはペリー提督の艦隊の中の一隻である「ミシシッピー号」の墜死した水兵を葬ったのが始まりで、ペリーの要求した「海の見える地」という条件に合致する山手の高台が選ばれて墓地が築かれました。
横浜港・みなとみらい21地区の海辺に造られた、その名の通り「港に臨む」海と水に親しめる公園が、臨港パーク。実はこの園地がみなとみらい21地区最大の緑地となっています。海水を利用した潮入りの池や、1万2500平方メートルもの芝生の広場などが用意され、『横浜開港祭』などのイベントの会場としても活用されています。
横浜・山手の高台にあるベーリック・ホールは、イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベリックの邸宅として、昭和5年に竣工した洋館。山手外国人住宅では最大規模の建物で、設計は山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場などを手掛けたアメリカ人建築家J.H.モーガンです。平成13に横浜市が取得し、建物と庭園を一般公開しています。
東京都千代田区紀尾井町の清水谷公園にあるのが大久保利通哀悼碑。明治11年5月14日朝、大久保利通は石川県士族・島田一郎(しまだいちろう)ら6人の不平士族によって暗殺されました(紀尾井坂の変)。明治21年5月、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らによって紀尾井坂に「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されました。
江戸時代、紀伊(紀州徳川家)、尾張(尾張徳川家)、井伊(井伊家)のそれぞれの屋敷があった東京都千代田区紀尾井町にある公園。紀州徳川家と井伊家の境からは清水が湧き出し、一帯は清水谷と称されていました。明治23年に一帯の土地が東京市に寄贈され、清水谷公園として整備。昭和40年に千代田区に移管され、現在は区立公園になっています。
東京都品川区南品川にある江戸三十三箇所観音霊場の第31番が品川寺(ほんせんじ)。寺伝では大同年間(806年〜810年)に空海(弘法大師)開山という古刹です(ただし空海が東国に布教に来たという裏付けはありません)。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌が伽藍を建立しています。銅造地蔵菩薩坐像は、江戸六地蔵の第一番。
航海安全の守護神として知られる道教の女神、媽祖(まそ)。「玉皇大帝」「天公」ともいわれ、中国の民間信仰では最高神にされているほどです。あらゆる神・仙人を統御し、人間の行為を算定して運命を決定すると信じられてきた媽祖を祀るのが横浜中華街にある横浜媽祖廟(よこはままそびょう)です。
江戸時代末期には半農半漁100戸ほどの小さな村だった横浜。黒船が来航し開いた港には、西洋文化がどっと上陸。それまで乗り物といえば駕籠(かご)だった日本で、関門のあった吉田橋と居留地を結ぶ馬車を通すために造成されたのが馬車道です。馬車道には「日本初」というものが多く、たとえば明治5年に初点火したガス灯もそのひとつ。
江戸の入口には東海道沿いの鈴ヶ森刑場(現・東京都品川区南大井)と日光街道沿いの小塚原刑場(荒川区南千住2丁目)、八王子・浅川河原(八王子市大和田町)の大和田刑場と3ヶ所の処刑場がありましたが、慶安4年(1651年)に東海道沿いに設置された刑場が鈴ヶ森刑場。第一京浜(国道15号)の傍らに刑場跡が残されています。
東京都品川区北品川3丁目に鎮座する東京十社のひとつ品川神社は、文治3年(1187年)、源頼朝創建という古社ですが、その境内で東海道を見下ろすようにそびえるのが東京随一の高さを誇る富士塚の品川富士です。東京23区内に残る「江戸七富士」のひとつで、比高は15mという巨大な富士塚です。
文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社(すさきじんじゃ=館山市洲崎)から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)を勧請して祀り、品川大明神としたのが始まりという古社。東京十社のひとつで、東海七福神の大黒天を祀っています。
横浜港・新港地区のシンボリックな風景のひとつが、横浜赤レンガ倉庫。新港埠頭脇に、古めかしくも美しいかつての2棟の倉庫が連なっています。明治32年、新港埠頭建設により、物資の一時保管場所として建てられたのが始まりで正式名は新港埠頭保税倉庫。設置当初から戦前までは税関施設として横浜税関が管理していました。
生糸の輸出全盛時代に、新港埠頭と当時の横浜駅(現在の桜木町駅)を結ぶ横浜臨港線として、明治43年8月15日に開通し、明治44年9月1日に横浜港荷扱所として開業したのが横浜港駅。大正9年7月23日付で正式に横浜港駅(よこはまみなとえき)となったプラットホームが横浜赤レンガ倉庫横に、旧横浜港駅プラットホームとして現存。
日本丸メモリアルパーク脇から、新港地区にある横浜ワールドポーターズまでの海上を歩く歩行者専用道が汽車道(きしゃみち)。かつての横浜臨港線の廃線跡で、みなとみらい21地区のホテル群や大観覧車を目に、のんびり歩けるプロムナードになっていいます。足元には、明治時代のトラス橋の遺構が3つ連続しています。
汽車道に3つ連続するかつての鉄道橋のうち、旧横浜駅(現・桜木町駅側)から3番目にあり、もっとも小さな橋が港三号橋梁。明治39年に架設された北海道炭礦鉄道夕張線の夕張川橋梁の100フィート鈑桁橋(鋼ワーレントラス橋)で昭和3年、横浜生糸検査所引込線の大岡橋梁として転用されたもの。