西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられたのが上野の山の寛永寺。寛永2年(1625年)、慈眼大師・天海大僧正の創建で、その中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂です。往時には今の上野公園の大噴水の地に建っていましたが、幕末の上野戦争で焼失。現在地に移転再建されています。
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総面積は53haにわたる広大な上野恩賜公園。江戸時代までは徳川家の菩提寺、東叡山寛永寺の境内で、多くの堂塔、塔頭が建ち並んでいた境内でした。不忍池に弁天堂や、上野動物園の中に五重塔があるのもそのため。明治6年に日本初の都市公園に指定。日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選、日本の都市公園100選に選定。
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。浅草観音境内の正智院地内に居を構えてからの約40年間を創作活動に費やしました。明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。浅草・仲見世の仲見世会館入口脇に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が立っています。
「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)。びっくり下谷の広徳寺。そうで有馬の水天宮」というのは江戸っ子の洒落。入谷は山手線鶯谷界隈の地名。恐れ入るということを洒落て、入谷の真源寺に祀られる鬼子母神を掛けたものです。境内と門前で7月に開かれる『朝顔市』は、東京の夏の風物詩。「下谷七福神」の福禄寿を祀っています。
浅草寺(せんそうじ)の総門が雷門(かみなりもん)で、正式の名称は、風雷神門。その名の通り、門の左側に風神、右側に雷神の像が配されています。初代の門は942(天慶5)年頃に建てられたという歴史ある山門で、1635年(寛永12)年、徳川家光によって建てられた門に風神雷神を配したことから「風雷神門」、略して雷門となったもの。
浅草通りの雷門から浅草寺の宝蔵門まで続く参道の両側に並ぶ商店街が仲見世(なかみせ)。江戸時代前期に境内や参道の清掃を命じられた地元住民が、掃除の代償として店を出す権利を認められたのが仲見世の起源といわれており、日本を代表する歴史ある商店街になっています。明治18年12月27日には煉瓦造の建物に生まれ変わっています。
台東区上野の上野公園に建っている「上野の西郷さん」は、西郷隆盛像ではもっとも古い銅像。西南戦争で、明治政府に反旗を翻した西郷は、いわゆる朝敵でもあったため、明治22年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、薩摩藩出身者が中心となって建設が計画され、高村光雲の作で築かれたもの。
上野動物園内の東園駅~西園駅(0.3km、所要時間1分30秒)を結ぶのが上野動物園モノレール。正式名は、東京都交通局上野懸垂線で、実は動物園のアトラクションではなく、鉄道事業法に基づく交通機関として東京都交通局が運営するもの。常設のものとしては日本初のモノレール(懸垂式鉄道)で、昭和32年12月17日に開業。
駿府城に家康を見舞った藤堂高虎(とうどうたかとら)の上野の屋敷地に建立された徳川家康、吉宗、慶喜を祀る神社で、正式名称は東照宮。明治以前は東叡山寛永寺の一部だったが、明治の神仏分離で神社として独立しています。出世、勝運、健康長寿にご利益があると、多くの参拝者を集めています。またぼたん苑は有名。
江戸時代、因幡(いなば)・伯耆(ほうき)32万石を治めた大名が、鳥取藩池田家(因州池田家)。徳川家とも姻戚関係にあり、江戸の地でも権勢を振るっていました。上野恩賜公園、東京国立博物館構内に移築現存するのが旧因州池田屋敷表門。東大の赤門(加賀藩・前田家屋敷門)に対して、堂々たる風格から「上野の黒門」と呼ばれています。
上野公園に建つ、明治5年創業の西洋料理の草分け上野精養軒。その近くにあるのが大仏パゴダ。関東大震災で崩れ落ちるまで、この大仏山と称する地には大仏が鎮座していました。現在では薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所があり、大仏の顔面部のみ保存展示され、「これ以上落ちない」と受験生の験担ぎのパワースポットになっています。
徳川将軍家の菩提寺として、天海僧正が創建した寛永寺。1625(寛永2)年、3代将軍・徳川家光の時代に貫主の住坊となる本坊が建てられました。本坊があったのは現在の東京国立博物館の敷地。慶応4年5月15日(1868年7月4日)の官軍と彰義隊との上野戦争で焼失し、旧本坊表門だけは奇跡的に残存し、輪王殿の前に残されています。
東京都公園協会が運航する東京水辺ライン。両国を起点に浅草(二天門)発着場に寄港し、お台場海浜公園、さらには葛西臨海公園までクルーズします。両国〜お台場海浜公園〜葛西臨海公園は、水上バス(海上バス)の定期クルーズとしては最長で、2時間ほどの所要。東京の川と東京港を楽しむことができます。
広重&国芳 浮世絵に描かれた駒形堂
隅田川に架かる駒形橋。そのたもとに駒形という地名の由来になった駒形堂があります。実はこの小さなお堂、東京最古といわれる歴史を誇る浅草寺のさらにルーツとなるお堂。江戸時代には吉原通いの粋人が乗る渡し舟の舟着き場も近くにあったことから、多色刷りの浮世絵(錦絵)にも描かれています。
江戸三大祭りのひとつに数えられる「三社祭り」が行なわれることでも知られる、東京都台東区、浅草にある古社。『浅草寺縁起』に登場する、隅田川で浅草寺の御本尊を感得した桧前浜成命(ひのくまのはまなりみこと)、桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)兄弟と、土師真中知命(はじのまつちのみこと)を祭神として祀っています。
東京でもっとも歴史を誇る寺は、浅草寺(せんそうじ)といわれていますが、そのルーツとなるお堂が駒形橋のたもと近くにある駒形堂。 『浅草寺縁起』によれば、浅草寺は兄弟が隅田川で漁をしていた際に1躰の仏像が網にかかったので自ら出家、屋敷を寺に改めたのが始まりと伝えますが、その仏像が陸に上げられた地が駒形堂です。
浅草・吾妻橋から隅田公園に降りた所に水上バスの乗り場があります。東京都観光汽船の通称が水上バスで、浜離宮経由日の出桟橋行の隅田川ライン、浅草・お台場直通ライン「ヒミコ」が運航されている。お台場海浜公園へは「ホタルナ」「ヒミコ」なら直通で、隅田川ラインの場合には日の出桟橋での乗り換えが必要。
1774(安永3)年10月17日に隅田川に架けられた歴史ある橋。隅田川の俗称である大川の名を取って大川橋と称していましたが、江戸の東にあるために町民たちから「東橋」と呼ばれ、吾嬬神社への参詣道でもあることから吾妻橋になりました。現在の橋は関東大震災後の復興で昭和6年の架橋。