『桜田門外の変』を現場検証しよう!

徳川幕府の終焉の時代と、広く世の中が認識した幕末の大事件が『桜田門外の変』。江戸城西の丸入口、外桜田門で、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩からの脱藩者らが、時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を殺害するという事件が起こります。その現場は、今も往時の名残をとどめていますので、現場検証には絶好!

まずは、事件の背景と「安政の大獄」をマスターしよう

『桜田門外の変』当日も一帯は雪景色だった!

事件からは早くも160年近い歳月が流れていますが、桜田門(外桜田門)は、江戸時代のままに残されています。
まずは事件の発端と背景をサラリとマスターしておきましょう。
病弱で世子が見込めない第13代将軍・徳川家定の後継問題、そして黒船来航と、時の大老・井伊直弼(彦根藩主)は、内憂外患の状況。
さらに日米修好通商条約の締結は、攘夷論の強かった朝廷の反発を買い、孝明天皇は幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下したのです。

これに対して、井伊直弼は、強権を発揮し、粛清を実施(安政の大獄)。
尊王攘夷急進派の水戸藩士は藩を脱藩して、大老・井伊直弼の暗殺計画を練るのです。

彦根藩主で大老の井伊直弼

3月3日、節分というのがキーワード

楊洲周延『千代田之大奥』雛拝見

事件が起こったのは、安政7年3月3日。
実は、この旧暦3月3日、つまりは雛祭りというのがひとつのキーワード。
江戸に住まう諸藩の大名は、江戸城に登城する日が決められていました。

正月、そして「月次(つきなみ)御礼」で、毎月1日と15日の定期登城日。
さらに徳川家康関東入府で、幕府の祭日である「八朔」(8月1日のこと)。
加えて、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の五節句が登城日でした。

上巳の節句(じょうしのせっく)、つまり3月3日の「雛祭り」では、奥向では雛人形を飾り、白酒が振る舞われ、諸大名は登城して将軍に祝辞を言上したと伝えられています。

この「総登城の日」であれば、大老に就任している彦根藩主・井伊直弼でも登場するのは確実とふんだのです。

襲撃側の水戸浪士の一行は前夜、東海道品川宿の旅籠(はたご=旅館)に泊まり、3月3日の早朝、品川宿を出立。
愛宕山山頂に鎮座するの愛宕権現(現・愛宕神社/東京都港区愛宕1丁目)に集合して、大願成就を祈願し、一路、桜田門へ。

大勢の見物客で賑わう、桜田門外で、大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠到着を待ったのです。
人混みに紛れ、手には最新の『大名武鑑』という、大名家のガイドブックを持ち、登城大名を見物する田舎侍を装っていました。

西暦に直すと3月24日。
関東の南海上を低気圧が抜けたのでしょうか、降りしきる牡丹雪は、警護の彦根藩士たちの視界を遮っていました。

安政年間の『大名武鑑』。刺客もこれを手にしていました
これを見れば、大名の纏(まとい)も識別できます

午前9:00、井伊直弼、彦根藩江戸上屋敷を出立

彦根藩邸跡(現・国会北庭/憲政記念館)から眺めた桜田門
歌川広重『東都名所 外桜田弁慶堀桜の井』

彦根藩江戸上屋敷があったのは、桜田門にほど近い、現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)あたり。
1万9815坪という広大な敷地を有していました。
ちなみに彦根藩中屋敷は現在のホテルニューオータニ一帯、彦根藩下屋敷は明治神宮、そして早稲田大学大隈庭園一帯にありました。

彦根藩上屋敷の建つ場所は、江戸時代初めには熊本藩加藤清正の屋敷だった地。2代・加藤忠広のときに改易され、その後は、彦根藩邸となったのです。

午前9:00頃、彦根藩邸上屋敷を駕籠(かご)に乗った井伊直弼が出発します。
井伊家上屋敷の表門前には、「甘泉」などと称されていた桜の井があり(現在の国会前交差点の付近にあった井戸は、内堀通りの拡張整備で国会前庭・北庭に移設)、通行人ものどを潤していたといいます。
事前に、井伊直弼襲撃の情報は入手していたのですが、警備を厳重にすると、時の大老が狙われるとなるとメンツも丸つぶれです。

彦根藩上屋敷跡の憲政記念館の庭から、桜田門を眺めると、意外に近くに感じます。
距離にしてわずか500mほど。
弁慶堀(現在の桜田濠)を左に見ながら内堀沿いを進みます。
藩邸を出た駕籠も、10分足らずのことだったでしょう。

歌川広重『江戸勝景 桜田外の図』

ついに脱藩した旧水戸藩士が井伊直弼に襲いかかる!

降りしきる雪から警備の兵は、雨合羽姿で、刀などにも袋をかけていたのです。これではとっさの防御には間に合いません。
250年以上も続いた太平の世。江戸城下で、大名の駕籠が切りつけられるなどという事件はまさに想定外だったでしょう。
そして、桜田門に近づいたところで、襲撃が始まります。

襲撃側の水戸藩士は、自刃、または斬首刑になっていますが、襲撃を受けた彦根藩士も、討ち死に以外の藩士も、藩邸に逃げ帰ったという罪で全員が斬首という哀れな結果になっています。

豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺)には、井伊護衛のため殉職した彦根藩士8人の「桜田殉難八士之碑」が、南千住回向院(東京都荒川区南千住)には、刑死した水戸浪士の墓が残されています。
また、水戸藩士が集結した愛宕神社境内には、「桜田烈士愛宕山遺跡碑」が立っていて、ここが襲撃部隊の出発の地であることを後世に伝えています。

月岡芳年『安政五戊午年三月三日於桜田門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図』

古地図&絵図に見る彦根藩邸➡桜田門



 

よく読まれている記事

ABOUTこの記事をかいた人

アバター画像

ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。