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泉岳寺・赤穂浪士の墓

江戸城松之大廊下で播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけた殺傷事件が発端になった「赤穂事件」。四十七士が本所・吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた話は『忠臣蔵』として描かれていますが、その四十七士の墓(赤穂浪士の墓)があるのが、赤穂藩・浅野家菩提寺の泉岳寺。

浅野家の菩提寺・泉岳寺に葬られた浅野内匠頭

赤穂浪士(赤穂義士)が眠る墓所の入口
吉良上野介の首を洗ったという首洗いの井戸

もともと、泉岳寺は浅野家の菩提寺。
3代将軍・徳川家光の命の命により、泉岳寺を高輪に移築し、伽藍建立の際に、普請(ふしん)を担った大名家のひとつが浅野家で、そのまま檀家となったものです。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城松之大廊下での刃傷事件が起こると、将軍・徳川綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じます。
切腹後は菩提寺の泉岳寺に亡骸は葬られています。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士(赤穂浪士)は吉良邸で吉良上野介を殺害後、永代橋を渡り、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かいました。
浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供え、焼香。
その後、吉良上野介の首は泉岳寺の僧が吉良家に届けています。

元禄16年2月4日(1703年3月20日)、大石内蔵助(大石良雄)以下、赤穂浪士はお預かりの大名屋敷である肥後熊本藩・細川家下屋敷(細川越中守綱利邸/現・都営高輪アパート/大石良雄外十六人忠烈の跡)、伊予松山藩三田中屋敷(松平隠岐守定直邸/現・イタリア大使館)、長門長府藩麻布上屋敷(毛利甲斐守綱元邸/六本木ヒルズ内の毛利庭園周辺)、三河岡崎藩芝中屋敷(水野監物忠之邸/現・水野監物邸跡/東京都港区芝5丁目)で切腹しています。

その後、赤穂浪士の亡骸は泉岳寺に葬られています。

刃で始まる戒名の四十七士の墓が並ぶ

大石良雄(大石内蔵助)の墓
ズラリと並ぶ赤穂浪士の墓

泉岳寺境内にある「浅野長矩墓および赤穂義士墓」は国の史跡。
討ち入りした四十七士のほか、討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔が並んでいます。
遺骸を義兄・中堂又助が引き取り、泉岳寺には埋葬されていない間光風(はざまみつかぜ=新六)の墓は、築地本願寺に葬られています。
討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔と萱野重実(三平)は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔になっています。

人形浄瑠璃・歌舞伎で江戸時代から人気の演目となった『仮名手本忠臣蔵』ですが、当時から、「仇討ち」なのか「復讐」なのかには論争がありました。
赤穂浪士なのか、赤穂義士なのかという呼び方もそれによって大きく異なるからです。

国の史跡名は「赤穂義士墓」となっています。

江戸切絵図に見る「赤穂事件」関係の藩邸
 

泉岳寺・赤穂浪士の墓 DATA

名称 泉岳寺・赤穂浪士の墓/せんがくじ・あこうろうしのはか
Tomb of the Forty-Seven Ronin
所在地 東京都港区高輪2-11-1
関連HP 泉岳寺公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄浅草線泉岳寺駅A2出口から徒歩1分
ドライブで 首都高速芝公園ランプから約2.5km
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ TEL:03-3441-5560/FAX:03-3441-2208
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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作成者: プレスマンユニオン編集部

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