海を除いた三方を山に囲まれた天然の要塞でもある鎌倉には、鎌倉七口と呼ばれる7ヶ所の入口が用意されていました。そのひとつが、現在の県鎌倉市十二所と横浜市金沢区朝比奈町を結ぶ峠道の朝比奈切通(あさひなきりどおし)。都市化の波から奇跡的に逃れ、往時のままに峠越えの山道が残され、スケッチなどにも絶好の地となっています。
房総半島への玄関口・六浦津を結ぶ道の開削が目的
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、仁治元年(1240年)11月30日、鎌倉と六浦(むつら)との中間に道路を開く議が定まり、時の鎌倉幕府執権・北条泰時が現地視察に赴いたという記載があります。
さらに仁治2年(1241年)4月5日、開削されたと記されています。
安房国朝夷郡に領地とした鎌倉幕府の御家人・朝比奈義秀(あさひなよしひで)が一夜で切り開いたという伝説も残されていますが、実際に工事を担ったのかもしれません。
当時、六浦津(むつらのつ)は、現在の東京湾側の天然の良港で、朝比奈切通を開削する目的も、北条氏が六浦津を鎌倉の外港として使おうということにあったのです。
北条泰時は、この六浦津の湊を弟・北条実泰(ほうじょうさねやす)に与え、その子・北条実時(ほうじょうさねとき)は六浦に館を構え、以降、4代に渡って金沢氏を名乗り、称名寺と金沢文庫を創建しているのです。
横浜市金沢区周辺の発展の基礎を築いたともいえるのがこの朝比奈切通しだったというわけなのです。
昭和31年までは県道扱いで、現在も鎌倉・横浜市道
建長2年(1250年)に補修工事が行なわれていますが、六浦や釜利谷で産する塩も朝比奈切通し経由で鎌倉へと運ばれています。
今では静かな山道ですが、明治の半ばまでは交易路として活用され、峠には茶店も建っていました。
昭和31年に脇を通る県道が開削されるまでは、この峠道が県道の扱いでした。
現在、歩行者しか通行できな山道ですが、鎌倉側は、鎌倉市道101号、横浜側は横浜市道六浦1号とともに市道の扱いに。
鎌倉・横浜市境の切り通し部分が高さ18mの「大切通し」、横浜市金沢区側が高さ16mの「小切通し」で全体が「朝夷奈切通」(あさいなきりどおし=これが正式な名称ですが、朝比奈町も「あさひな」と読ませているため、一般的には「あさひなきりどおし」と呼ばれています)として国の史跡になっています。
極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、名越切通のなかでは、化粧坂、名越切通と並んで、往時の風情が残された道となっています。
朝比奈切通 DATA
名称 | 朝比奈切通/あさひなきりどおし |
所在地 | 神奈川県鎌倉市十二所・横浜市金沢区朝比奈町峠坂1 |
関連HP | 鎌倉市公式ホームページ |
電車・バスで | JR鎌倉駅から十二所方面行きバスで十二所神社下車、徒歩10分 |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 鎌倉市市民生活部観光課 TEL:0467-61-3884 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |