安政6年6月2日(1859年7月1日)の開港後、横浜に居留した外国人の墓地として、横浜の発展に尽くした外国人たちが眠る墓地が横浜外国人墓地。もとはペリー提督の艦隊の中の一隻である「ミシシッピー号」の墜死した水兵を葬ったのが始まりで、ペリーの要求した「海の見える地」という条件に合致する山手の高台が選ばれて墓地が築かれました。
横浜の開港、居留地時代の歴史を秘める山手の墓地
当初は、増徳院(現・横浜市南区平楽/開港当時は元町にありました)の墓地だった場所に、「ミシシッピー号」のマスト上から誤って転落死した二等水兵ロバート・ウィリアムズを嘉永7年(1854年)に埋葬したのが始まり。
後に日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が造られ、水兵の墓も玉泉寺へと移設されていますが、増徳院の墓地は、居留地の開設後の文久元年(1861年)、外国人墓地となったのです。
開港直後に攘夷派の武士に殺害されたロシア使節ムラビヨフ(樺太はロシア領と主張し、江戸幕府はこれを拒否)の護衛艦隊乗組士官ローマン・モフェトとイワン・ソコロフもこの外国人墓地に眠っています。
生麦事件の犠牲者チャールズ・リチャードソンの墓ももっとも歴史ある墓域の元町側通用門付近にあります。
現在では、22区5600坪の墓地に、40数ヶ国、5000人以上が眠っています(墓石数は3000ほど)。
小高い丘の上に建つ墓地からは、横浜市街が一望のもと。
大正期に建てられた正門(山手門)を設計したのは旧丸ビルや山手111番館、旧ベーリック邸(ベーリック・ホール)の設計で知られるJ・H・モーガン(Jay Hill Morgan)。
彼もまたこの墓地に眠っています(1937年6月6日没)。
墓地の維持管理は各国領事団がという明治政府の方針で明治3年に管理委員会が結成され、明治33年4月に財団法人横浜外国人墓地として法人化されましたが、公益財団法人となった今もそのスタイルは変わっていません。
「横浜外国人墓地資料館」も併設され、墓地に埋葬されたなかで、経歴などが判明している約300人資料を公開しています。
また、外国人墓地内は、通常は非公開。
例年、3月末〜12月の土・日曜、祝日(12:00〜16:00、雨天の場合は除く)に実施される維持管理のための募金活動期間に、募金に協力した場合に入苑が可能となっています。
ちなみに、明治4年、華人・華僑(現・中国人)の墓地は中区大芝台へ移され、中華義荘として現存しています。
そのほか、横浜には根岸外国人墓地(中区仲尾台)、英連邦戦死者墓地(保土ケ谷区狩場町)と合計4ヶ所の外国人墓地が設置されています。
横浜外国人墓地 DATA
名称 | 横浜外国人墓地/よこはまがいこくじんぼち The Yokohama Foreign General Cemetery |
所在地 | 神奈川県横浜市中区山手町96 |
関連HP | 外国人墓地公式ホームページ |
電車・バスで | 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩3分、またはJR石川町駅から徒歩15分 |
ドライブで | 首都高速横羽線横浜公園ICから約1.8km |
駐車場 | 元町第一駐車場(90台/有料) |
問い合わせ | 横浜外国人墓地資料館 TEL:045-622-1311 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |