館山市佐野の田園地帯に赤レンガの遺構が残されています。
これが、全国から館山に収集された予備学生が過酷な教育を受けた館山海軍砲術学校の炊事場の跡。
館山に散在する戦争遺跡は、地元NPOの平和教育などに活用されています。
海軍砲術学校とは!?
海軍砲術学校は、明治26年、士官に対する砲術教育の場として横須賀に「砲術練習所」を設置したのが始まり。
明治40年に海軍砲術学校に改編。
太平洋戦争回線の直前(昭和16年12月8日=真珠湾攻撃)の昭和16年6月1日、館山に予備学生の陸戦教育のため「館山砲術学校」を増設しました。
太平洋諸島での上陸作戦を実戦訓練するにふさわしい自然の砂丘がある、そして海軍館山航空基地に隣接という絶好の条件がここにはありました。しかも館山湾は、仮想真珠湾にもなっていました。
落下傘訓練プールは、海軍初の落下傘部隊の養成。つまりは陸戦にも備えていたわけです。
昭和16年9月、全国から精鋭1500名が館山海軍航空隊に集められ、わずか3ヶ月で落下傘兵を養成。翌昭和17年1月10日にメナド奇襲占領作戦の航空基地制圧に活躍したのです。
平砂浦まで及ぶ広大な演習場と東砲台・西砲台の対空訓練砲台を備え、のべ1万5000人という未来ある大学生や技術系専門学校の生徒を予備学生として招集し、専門教育を施したのです。
陸戦・対空・化学兵器の3科に分かれて、「鬼の館砲(たてほう)」といわれるほど厳しい訓練を受けたのです。
海軍の砲術学校ですから艦砲の技術習得かといえば、陸戦科では対戦車対策、対空科では高角砲砲台を使っての航空機への砲撃、化学兵器科では細菌戦の訓練と陸軍さながらの内容でした。
↑畑の脇に異彩を放つレンガ造りの建物が(ここに到達するまでは迷いましたが・・・)
当初は太平洋諸島の占領という目的もあったのですが、徐々に本土決戦に備える熾烈な内容へと変化します。
多くの予備学生は訓練を受けた後に、ジャワ、ニューギニア島など太平洋の戦場で散っていったのです。
平砂浦の砂丘地帯も演習用地として使用され、砂防のため植栽した松林も伐採されました。
温暖な南房総では花卉栽培が盛んでしたが、「臨時農地管理令」により、花卉栽培は禁止され、花畑は芋畑に変身したのです。
畑の隅に種苗用にと少しでも花を残せば非国民といわれた時代です。
館山海軍砲術学校の校舎があった場所は、房南中学校(千葉県館山市佐野2070)の敷地に変わり、往時の建物は残されていません。
学校横の立派な道は戦車の走行に堪える丈夫な造りで、国道横を流れる川に架かる橋は戦車橋と呼ばれています。
その北側には過酷な落下傘訓練を行なった飛行特技訓練プール跡も現存。
そこから少し陸(おか)側の田園地帯にレンガ造りの建物が残されていますが、この建物が奇跡的に残った烹炊場(炊事場)の釜場跡です。
その南側には学生舎の跡があり、井戸の横に平和祈念塔が立っています。
房南中学校西側の畑の中には化学兵器実験施設跡も現存していますが、訪れる人はほとんどいません(それぞれの正確な場所は地図に記載)。
また館山駅東口ロータリーのヤシの木は、かつて館山海軍砲術学校にあったものを昭和22年のロータリー完成時に移植したものだとか。
昭和16年の砲術学校開校時に、神戸(かんべ)在住の安西定七さんが庭のヤシの木を寄贈したものなんだとか。