葛飾八幡宮は、下総国総鎮守。つまりは下総地方に住む人の氏神様。平安時代の寛平年間(889年〜898年)に京の石清水八幡宮から分霊を勧請して創建という古社。平将門(たいらのまさかど)の奉幣、源頼朝の社殿改築、江戸城を築いた太田道灌の社殿修復、徳川家康の社領52石の寄進と武家による信仰も篤かった社です。
下総国の総鎮守社で源頼朝、徳川家康も尊崇
市川市に鎮座する葛飾八幡宮は、誉田別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、玉依比売命を祭神とする古社。寛平年間(889年〜898年)、宇多天皇の勅命により石清水八幡宮の分霊を勧請して創建と伝えられ、下総国の総鎮守社。江戸と佐倉を結ぶ佐倉街道(成田街道=現在の国道14号)の八幡宿(やわたしゅく)としても発展し、宿場の鎮守社としても尊崇されていました。成田山新勝寺への参詣の宿場としても賑わい、市川市八幡(やわた)の八幡も神社の門前として発達した町を表しています。
武神であることから平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士の信仰を集めました。
神社なのに随神門、鐘楼があるのは、明治の神仏分離まで天台宗・東叡山寛永寺(上野の寛永寺)の末寺である八幡山法漸寺が別当寺として八幡宮境内にあったため。廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。
現存する随神門は法漸寺の山門として仁王像が配され仁王門と呼ばれていました。『江戸名所図会』には、法漸寺本尊は阿弥陀如来像、仁王門には右に阿形(あぎょう)像=「金剛力士」、左に吽形(うんぎょう)像=「密迹力士」、その裏には多聞天と大黒天の像が安置されていたとしるされています。
仁王像は市川市本行徳の海厳山徳願寺に移され、現在は左右大臣(随神)を祀っています。
「千本公孫樹」は国の天然記念物
樹齢1200年で国の天然記念物に指定される「千本公孫樹」(せんぼんイチョウ)、八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)として有名な聖地(鎮守の森)もあって、永井荷風、幸田文、幸田露伴、伊藤左千夫(『八幡の森』という作品を執筆)などの文化人にも愛された社です。
市川の特産品である市川梨は1770(明和7年)、八幡の川上善六が、境内で梨を栽培したのが始まり。美濃国(岐阜県)で梨栽培技術を学び、接穂(つぎほ)を持ち帰り、八幡宮境内に接木(つぎき)して栽培。当初は八幡梨として売り出しました。境内には大正4年に建立された「川上善六遺徳碑」もあるので、お見逃しなく。
[colwrap] [col2][/col2] [col2][/col2] [/colwrap]葛飾八幡宮の主な年中行事
1月1日/歳旦祭=迎春を寿ぎ1年の始まりを告げる祭儀
6月30日/夏越の大祓=茅の輪くぐりが斎行されます
9月15日/例大祭=9月15日〜20日の間、農具市が開催されます
10月(3年に一度)/八幡祭(やわたまつり)=八幡の街に向けて大神輿が巡行
12月31日/年越の大祓=茅の輪くぐりが斎行されます
33年に一度だけ行なわれる『三十三周年式年大祭』は平成29年4月1日~3日に斎行予定
かつては「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」として禁足地にもなっていた八幡の森。「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記された幕末の安政4年(1857年)、伊勢屋宇兵衛の建立した石碑が立っています。水戸黄門こと徳川光圀が当地に立ち入って迷い、ようやく出たのちに禁足地とした説は錦絵にも描かれて定説となりました。下の絵が月岡芳年(つきおかよしとし)が描いた『不知藪八幡之実怪』(しらずのやぶやわたのじっかい/千葉県立中央図書館所・葛飾八幡宮など蔵)。徳川光圀(右)の前にモノノケがあらわれています。
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葛飾八幡宮 | |
名称 | 葛飾八幡宮/かつしかはちまんぐう |
所在地 | 千葉県市川市八幡4-2-1 |
関連HP | 葛飾八幡宮公式ホームページ |
電車・バスで | 京成八幡駅から徒歩5分。または、JR・都営新宿線本八幡駅から徒歩10分 |
ドライブで | 京葉道路市川ICから約2.2km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 葛飾八幡宮社務所 TEL:047-332-4488 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |