741(天平13)年、聖武天皇の詔により、国家鎮護のために諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつ。国庁とともに上総国の最大の建築物で、中門、金堂、講堂が南北に一直線に並び、中門左右から出た回廊が金堂に達し、回廊で囲まれた方形の区画の東側に塔が建つ大官大寺式の伽藍配置だったことが判明しています。
広大な古代の上総国分寺の寺地を見学
実は古代の上総国は、上野国(かみつけのくに=現・群馬県)、常陸国(ひたちのくに=現・茨城県)とともに親王が国司を務める親王任国。初代の太守(国司)は桓武天皇の第十二皇子・仲野親王(なかのしんのう)だったことからも、奈良の朝廷がいかに上総国を重要視していたかがよくわかります。
上総国分寺跡は、養老川北岸の台地上に位置し、北東には国分尼寺跡が現存しています。
周辺には神門瓦窯跡、南田瓦窯跡という瓦の窯跡や神門(ごうど)3号墳・4号墳・5号墳、た「王賜」銘鉄剣の出土した稲荷台1号墳(稲荷台古墳記念公園として整備)などの史跡が多く、上総国の中心地であったことがよくわかります。
西側、雷田池のほとりにある神門瓦窯跡群、南側の南田瓦窯跡群は国分寺の瓦を焼いた瓦窯跡です。
聖武天皇創建の上総国の国分寺(金光明四天王護国之寺)は、室町時代までに荒廃してしまったとか。
その後継寺院として元禄年間(1688年〜1704年)に再建された真言宗豊山派の寺、上総国分寺が建っています。
江戸時代に後継寺院の上総国分寺が建ってはいますが、寺域は南北約490m、東西325mと広大で、塔跡の基壇などが現存。
塔跡には巨大な礎石が残されており、礎石の間隔から、塔は高さ63mほどの七重塔であったと推測されています。
また、金堂の基壇は、東西26.4m、南北15.9m、講堂の基壇は、東西27.8m、南北17.9mと判明。
道路に面したところには、西門跡があり、発掘調査から八脚門であったことがわかっています。
上総国分寺跡 DATA
名称 | 上総国分寺跡/かずさこくぶんじあと |
所在地 | 千葉県市原市惣社1-7-1他 |
電車・バスで | JR内房線五井駅東口から小湊鉄道バス国分寺台行き・山倉こどもの国行きなどで市原市役所下車、徒歩8分 |
ドライブで | 館山自動車道市原ICから約4.1km(10分) |
駐車場 | 20台(国分寺駐車場/国分寺西側)/無料 |
問い合わせ | 市原市ふるさと文化課TEL:0436-23-9853 |
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