1日9万人以上の乗降客を誇るJR大森駅は、日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開業した4年後の明治9年6月12日。その翌年、横浜から新橋へ移動途中の汽車の車窓からモースが貝塚を発見。これが日本の考古学発祥となったため、モースが発掘調査のために降り立った大森駅のホームに「日本考古学発祥の地」碑が立っているのです。
碑の上には大森貝塚出土の深鉢式土器のレプリカも
明治10年6月19日、エドワード・S・モース(Edward Sylverster Morse/1838年~1925年)は、横浜から新橋へと向かう途中、大森駅を過ぎた直後の車窓左手の崖に貝殻の堆積を発見します。政府の許可を得て、9月16日から発掘調査を開始。
明治12年には日本初の考古学的な発掘報告書となる“Shell Mounds of Omori”と和文版『大森介嘘古物編』を出版。このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」となっているのです。
JR京浜東北線大森駅のホームの中央に設置された「日本考古学発祥の地」碑の側面には「E.S.モース発掘100周年記念建立」と記されています。昭和54年12月に東京大森ロータリークラブ、東京大森ライオンズクラブ、東京都大森貝塚保存会が建立したもの。
碑の上にのる土器は、大森貝塚出土の深鉢式土器(東京大学総合研究博物館蔵、国の重要文化財)を2倍にしたもの。
深い鉢形は、汁を蒸発させないでじっくり煮るのに好都合で、縄文人はこれで貝などを煮て食したと推測されています。
またドングリなどを煮たりしても生の消化しづらいβデンプンをαデンプンに変化させるのに好都合な土器だったというわけです。
現在、縄文土器といわれる縄目紋様の土器は、モースがcord marked potteryと記したことが起源です。
関東エリアに住んだ縄文人は、厳しい気候変動などを受けて縄文時代でも大きく異なります。縄文早期9700人、縄文前記4万2800人、縄文中期9万5400人、縄文後期5万1600人、縄文晩期7700人と推測されています。人口密度ももっとも人口の多い縄文中期でさえ1平方キロあたり3人ほど(縄文時代中期には日本は全国的に温暖となり、食料供給が容易となって人口も増加)。
タンパク質については、4割が魚介類から、3割が獣肉、残りの3割がドングリなどの植物からだったことがわかっています。
大森貝塚などは縄文後期に属するため、この時期の縄文人の集落跡や貝塚は実に貴重な遺跡だということがお分かりいただけるかと思います。
「日本考古学発祥の地」碑 DATA
名称 | 「日本考古学発祥の地」碑/にほんこうこがくはっしょうのちひ |
所在地 | 東京都大田区大森北1 |
電車・バスで | JR大森駅ホーム |
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