江東区を流れる平久川(平久運河)に架かる橋。橋長32.0m、幅員13.4mの鋼製トラス橋。昭和2年に関東大震災からの復興計画のもと架橋された鋼橋のひとつ。平成5年に改修されています。平久橋の上流で大横川が合流し、下流で古石場川が分流しています。まさに一帯は運河の町となっています。
一帯は明治中期以降の埋立地
平久橋の「平久」とは、旧町名平富町と久右衛門町の間にあったのが名の由来です。
橋を通る道路は、牡丹町通り(区道)ですが、江戸時代には広重の『江戸名所 洲崎はつ日の出』にも描かれる洲嵜(洲崎)へと通じる砂州でした(下の江戸切絵図を参照)。
橋の西詰に都指定有形文化の「波除碑」(なみよけのひ)、江東区解説板である「津波警告の標柱」が立っています。
平久橋の塗装は、東豊橋と同じで、粋な深川鼠(ふかがわねずみ)になっています。
江戸切絵図に見る平久川・平久橋周辺
明治16年以降、東京府が航路の確保のために東京湾内や隅田川河口付近の浚渫(しゅんせつ)事業が始まります。
東京市のごみ処理、隅田川を浚渫した土で、大横川以南の土地の埋め立てが始まります。現在の木場1丁目、6丁目、塩浜1丁目、2丁目、古石場3丁目などは、明治中期以降の埋め立てで誕生したエリア。つまり、江戸時代には平久橋の架かる部分から北にしか平久川も存在していません。
平久橋の架かる場所は、江戸時代には江戸湾の海岸線で、潮干狩りや初日の出を楽しむ景勝地、洲嵜(洲崎)海岸の西端だったのです。
古石場という地名は、江戸幕府の石置場だったことに由来。
明治中期以降に埋め立てが進み、深川海辺新田飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場と呼ばれる地が誕生。明治24年に統合して深川古石場という町名が新設されました。
平久橋西詰の牡丹という風流な地名の土地は、江戸時代に、江戸湾沿いの海岸を埋め立てた土地。牡丹を栽培する農家が多かったので、牡丹町と名付けられました(牡丹職人が多かったという説もあります)。
平久橋東詰の木場は、江戸市中の度重なる火事により、材木需要は切迫していたため、1701(元禄14)年、深川の埋立地に材木商たちが移住させられうまれた町。
1703(元禄16)年、木場町と命名されています。
昭和6年、島田・鶴歩・入船・茂森・扇橋の周辺各町を合わせ、昭和42年、平久町も合併。
平久橋 | |
名称 | 平久橋/へいきゅうばし |
所在地 | 東京都江東区牡丹3丁目・木場1丁目 |
電車・バスで | 東京メトロ東西線木場駅から徒歩5分。東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線門前仲町駅から徒歩7分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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