観音崎公園の素掘りトンネルは、幕末の台場跡!?

昭和20年8月の終戦まで旧軍の要衝地帯として幕末からの長きにわたり、一般の立ち入りが厳しく制限されてきた観音崎。
実は、それゆえに、知られざる不思議なスポットが数多く残されています。

観音崎公園の海岸園路に不思議なトンネルが!

現在は豊かな自然が残る県立観音崎公園として、ピクニックに絶好の地となっていますが、東京湾(江戸時代には江戸湾)の入口に突き出したという地理的な要因で、海防上の最重要地点とされたのです。

そんな観音崎をレストハウスと観音崎バス停のある観音崎園地から海岸沿いに敷石園路を北上すると、海岸園地。さらに灯台下の岬を回り込むと、小さなトンネルがあります。
これが、注目の素掘りのトンネルで、地元ボランティアガイドさんの解説では、
「幕末に掘られた、横須賀最古の隧道(ずいどう=トンネルのこと)」とか。

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幕末に観音崎には異国船監視のお台場が

幕末といっても漠然としています。
そこで、観音崎の要塞化の歴史を少し紐解いてみましょう。

文化7年(1810年)、徳川幕府は樺太出兵後の会津藩(あいづはん=現在の会津若松を中心とした福島県にあった藩)に相州側の江戸湾(三浦半島の神奈川県側)警備を命じます。
そこで、会津藩は、観音崎、久里浜、城ヶ島に砲台と陣屋を築きます。
観音崎台場は、現在の観音埼灯台のある場所に文化9年(1812年)に完成。
会津藩の駐屯は10年ほどで終了し、文政4年(1821年)からは浦賀奉行所の管理となります。

徳川幕府は、文政8年(1825年)に日本沿岸に来た外国船を追放するための異国船打払令(いこくんうちはらいれい=無二念打払令)を出します。
これは教科書にも載っているので覚えている人も多いはず。

では、この時、掘られた隧道が、現存する素掘りのトンネルかといえば、その可能性はほぼゼロです。
なぜなら、文政5年(1822年)9月17日付の浦賀奉行・小笠原長保の日記『東福寺詣』にも、弘化4年(1847年)の山鹿高補の『浦賀巡覧私記』にも、山を越えたという記述があるのです。

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↑内部は掘ったままに凸凹している

素掘りのトンネルは1852年完成

その後、嘉永3年(1850年)12月に観音崎台場は、少し北側の鳶巣崎への移転が決められます。
これが、鳶ノ巣台場(鳶巣崎台場)で川越藩が警備を担当していました。

場所は、現在、海上自衛隊の観音崎警備所の敷地、沖に第二次大戦末期に築かれた対潜水艦の聴音所がある場所です。
この鳶ノ巣台場の工事は、永嶋重美が担当しています。
その内容は、海岸沿いに道を造ると、海側から丸見えなので「穴道に切抜被成下度奉存候事」とあるので、この時、隧道を掘ったことが判明します。

『字鳶巣崎御台場御普請仕様書』によれば、隧道の規模は、繰穴長三十六間(65.4m)、平均高一丈一尺(3.33m)、平均横九尺(2.73m)。

現存する素掘りのトンネルは、入口部分が修復されていますが、全長は61mと大きさも長さもほぼ一致します。

結論としていえば、この素掘りトンネルは鳶ノ巣台場の工事にあわせ、嘉永5年(1852年)頃に完成したことがわかります。

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↑手掘りのトンネルを抜けた先の展望園地(南門砲台跡)に平成27年まで設置されていた二十八サンチ榴弾砲(復元)。これは明治の要塞時代のもので、台場との関係はありません

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