喰違見附跡

1612(慶長17)年、甲州流軍学の創始者・小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝わる江戸城外郭門のひとつ。江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣をコの字型に巡らした強固なものですが、喰違見附は土塁を前後に延ばして道をジクザクにして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち=城の出入口)の構造です。

道を食違いにして防備を固めたのが名の由来

喰違虎口のイメージ

道がジグザグになっているのが喰違(くいちがい)という風変わりな名の由来。
江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、1634(寛永11)年に築造が始まった江戸城外濠工事、外郭門(四谷見附、赤坂見附など)建築に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと推測できます。

外濠が構築されてからは、真田濠弁慶濠の間に位置しています。
真田濠は埋め立てられて上智大学の野球場などグラウンド(上智大学真田堀運動場)になっていますが、弁慶濠は今も水を湛えて現存しています。

この喰違見附坂で、明治7年1月14日には右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)が高知県士族に襲撃されるという暗殺未遂事件「喰違の変」が起こっています。
事件の重大性から、武市熊吉ら犯人9名は、伝馬町牢屋敷(現・東京都中央区立十思公園周辺)で処刑されています。

真田濠
弁慶濠

江戸切絵図に見る 喰違見附


 

 

喰違見附跡
名称 喰違見附跡/くいちがいみつけあと
所在地 東京都千代田区紀尾井町5-2
電車・バスで JR・東京メトロ丸ノ内線・南北線四ッ谷駅から徒歩6分
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