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新港橋梁

経済産業省の近代化産業遺産に認定される赤レンガ倉庫、50t起重機(ハンマーヘッドクレーン)のある新港ふ頭地区と、象の鼻パークを結ぶ「山下臨港線プロムナード」途中にあるかつてここを走った鉄道、臨港線(税関線)の新港橋梁。遊歩道「山下臨港線プロムナード」の橋として余生を送っています。横浜市の歴史的建造物に認定。

「山下臨港線プロムナード」に残された臨港線の国産橋梁

『横浜税関新設備写真帖』に掲載の新港橋梁(国立国会図書館蔵)

明治44年に開通した桜木町駅と新港埠頭とを結ぶ臨港線(税関線)は、翌明治45年に横浜税関構内まで延長されました。
その延長の際に架けられたのがこの新港橋梁です。
横浜港の西波止場よりもさらに西側を埋め立てて新港埠頭を造る計画は明治32年に着手し、大正3年に完成していますが、その新港ふ頭を通る橋という意味で新港橋梁とネーミングされたもの。

昭和40年7月1日に、さらに延長して山下埠頭駅までの路線が開通したため、その廃線跡を遊歩道化したさいの名前が、山下臨港線プロムナードとなっています(昭和61年11月1日廃止)。

新港橋梁は、明治45年に架橋された100フィート・ポニー型鋼ワーレントラス橋。
設計施工は、大蔵省臨時建築部。
純国産で、施工は浦賀船渠(うらがせんきょ)。

先行して架橋された現・汽車道の港一号橋梁、港二号橋梁がアメリカ製、港三号橋梁がイギリス製ですが、新港橋梁は日本における初期の国産トラス橋。
英国系は部材をピンで結合させていますが、国産の場合にはさらに強固にリベット結合となっています。

橋を建設したのは浦賀の造船所!

丸頭のリベットにも注目を!
浦賀船渠

橋を製造した浦賀船渠株式会社は、橋梁製造のメーカーではなく、浦賀港(現・横須賀市浦賀地区)にあった造船所です。
ペリー来航の嘉永6年(1853年)、江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置し、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造。
これが有名な浦賀ドックのルーツです。

さらに日本初のドライドックを造ってアメリカに渡る「咸臨丸」(かんりんまる)の整備なども行なっています。
艦船の建造が横須賀に移されたため、明治30年に浦賀船渠となって明治40年に駆逐艦「長月」を建造。
その後、大阪にあった藤永田造船所と並んで駆逐艦建造で有名になりました。

浦賀船渠株式会社は、浦賀重工業を経て住友重機械工業となり、平成15年に閉鎖。
浦賀ドックは、『咸臨丸フェスティバル』や『中島三郎助まつり』などの際に、ドライドックを含め一部が公開されています。

浦賀船渠がなぜ新港橋梁を製造したのかは、社史にも触れられておらず、定かでありません。
当時、鉄道連絡船の建設をしていたこととの関連があったのかもしれません。

新港橋梁 DATA

名称 新港橋梁/しんこうきょうりょう
Shinko Bridge
所在地 神奈川県横浜市中区新港1・海岸通1
関連HP 横浜観光コンベンションビューロー公式ホームページ
電車・バスで 横浜高速鉄道みなとみらい線日本大通り駅から徒歩8分
ドライブで 首都高速横羽線みなとみらいランプから約2km
駐車場 赤レンガ倉庫駐車場(179台/有料)などを利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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作成者: プレスマンユニオン編集部

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