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池田山公園

東五反田にある品川区立の公園。江戸時代は、岡山藩池田家下屋敷のあった地で、大名庭園の名残をとどめる池泉回遊式の庭園が現存しています。江戸時代から池田家の下屋敷があったことから池田山と通称されていたことが、公園の名の由来になっています。下屋敷時代には3万7600坪という広大な敷地だったといいますがその面影はありません。

岡山藩初代藩主・池田光政が取得した下屋敷がルーツ

入園口は北東端と北西端の2ヶ所(写真は北東端)

池田山公園は、岡山藩池田家(禄高31万5000石)の下屋敷の跡。一帯は江戸時代に上大崎村と下大崎村にまたがる高台で、1670(寛文10)年に初代藩主・池田光政(いけだみつまさ)が下屋敷(大崎屋敷)にしています。

江戸時代には、敷地東側に中原往還(現在の桜田通り)が通り、中原往還に面して表門を構えていました。
南側に裏門、北側に目黒門があり、敷地の中央には、隠居した藩主が暮らす建物や書院を配したのです。
南側が谷で、谷の奥の大きな池を中心にして庭園が造られ、目黒川を望む南端の高台には茶室「山ノ御茶屋」が建てられていました。

邸内には御菜園と呼ばれる農園もあって、農産物は上屋敷、中屋敷に届けられ、さらに余剰品は販売もされていました。

明治維新、廃藩置県後も屋敷は池田家の邸宅となり存続。
大正時代末期から3万7600坪の敷地は次第に宅地として分譲。
一帯は宅地化が進みましたが、山の手有数の高級住宅街として、皇后美智子様の実家である正田家の邸宅もここにありました(現在その跡地は区立公園「ねむの木の庭」になっています)。

池田山の地形を知ってから入園すれば、なお楽しい!

淀橋台の崖を巧みに利用しています

池田山は淀橋台(下末吉段丘)と呼ばれる武蔵野台地の一画。13万年〜11万年前、関東平野が海(古東京湾)となった際に、海の退行にともなって陸化した台地。古い地質時代に形成された淀橋台(下末吉段丘)は、侵食で生まれた浅い開析谷が多いのが特長です。
同じ台地の北側には目黒の自然教育園があります。

その台地のヘリにあたる、緩やかな斜面の高低差を巧みに活かしたのが、岡山藩池田家下屋敷の池泉回遊式庭園。
区立公園(公園面積は、0.7ha)となった池田山は、淀橋台の高台部(かつての屋敷部分)が遊戯・休憩ゾーン、侵食された低地部(江戸時代の庭園部)が回遊ゾーンとなっています。

例年、11月下旬〜12月上旬頃にはイロハカエデが見頃に色づきます。

近年、「富士山からの龍脈が流れ込むポイント」として喧伝(けんでん)され、パワースポットとしても注目されています。

谷の最奥に池泉が

江戸に5ヶ所あった岡山藩邸

大名は幕府から江戸屋敷地を数ヶ所与えられていましたが、大大名ほど多く、31万5000石の岡山藩池田家は本邸である上屋敷のほか、中屋敷3ヶ所と下屋敷1ヶ所がありました。
上屋敷と中屋敷2ヶ所は現在の東京駅の赤レンガ駅舎中央口から南口あたりの丸の内駅前に。
残りの中屋敷は築地と新橋(愛宕下)にありました。築地の藩邸前には備前橋が架かっていましたが、運河も埋め立てられ、今では橋の欄干だけが残されています。

江戸切絵図に見る 岡山藩池田家下屋敷

目黒不動龍泉寺、増上寺の子院群など周囲の寺の多くは、明治初年の廃仏毀釈の荒波を経て現存しています。
目黒川の流れも、その位置は昔のままです。
古地図から岡山藩池田家下屋敷がいかに広大だったかがよくわかります。
下目黒にあった金毘羅大権現だけは神仏分離、廃仏毀釈で廃寺となり、北海道上川郡東川町の東川寺が後継寺院になっています。

池田山公園
名称 池田山公園/いけだやまこうえん
所在地 東京都品川区東五反田5-4-35
関連HP 品川区公式ホームページ
電車・バスで JR・東急池上線・都営地下鉄浅草線五反田駅から徒歩15分
問い合わせ 池田山公園管理事務所 TEL:03-3447-4676
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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作成者: プレスマンユニオン編集部

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