新政府軍の江戸城総攻撃は、1868(慶応4)年3月15日に予定されていました。その前日、3月14日、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)が行なわれました。薩摩藩蔵屋敷跡は、三菱自動車工業本社ビルとなっていますが碑が立てられています。
1868(慶応4)年3月15日、ここで江戸城無血開城が決定!
3月13日、高輪の薩摩藩下屋敷で第1回目の会談が行なわれ、続いて翌3月14日に田町にあった薩摩蔵屋敷で会談がもたれました。
蔵屋敷の陸側にあった田町の薩摩藩上屋敷は前年暮の焼き討ちで焼失していたため(戊辰戦争のきっかけともなった焼き討ち事件)、当時は江戸湾に面していた蔵屋敷が利用されたもの。
円形の石に「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地 西郷吉之助書」と大書され、裏には「慶応四年三月十四日 此地薩摩邸に於いて 西郷 勝両雄会見し 江戸城開城の円満解決を図り 百万の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり 平和を愛する吾町民深く感銘し 以て之を奉賛す」(原文は旧字体)と記されています。
西郷吉之助は、西郷南洲(西郷隆盛)の孫。
会見の地については諸説ありますが、通説は高輪の薩摩藩下屋敷、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)だとされています。
江戸切絵図、錦絵に見る薩摩藩上屋敷、蔵屋敷
芝浦沖は将軍家に魚を献上する「御菜肴八ヶ浦」(おさいさかなはちがうら)にも指定される好漁場で、家康の江戸入府以来毎月将軍家に魚を献上していましたが、海岸沿いには諸藩の蔵屋敷が並び、各藩の荷物が船で運び入れられていました。
勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張。
恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜は、小栗忠順を罷免し、陸軍総裁に勝海舟(義邦)を配するなどの人事異動を実施します。
さらに静寛院宮(皇女・和宮)、天璋院・篤姫を通じて、新政府側に恭順の意を伝えるべく尽力します。
3月6日に大総督府の軍議において江戸城進撃が決定していますが、徳川慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れるという考えを西郷や大久保利通は有していました。
3月9日に幕府側の使者・山岡鉄太郎(鉄舟)が駿府(現・静岡市)まで進軍していた新政府軍の大総督府で会談。
その山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、大総督府下参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉が3月13日、3月14日に行なわれ、合意が破断となったら江戸焦土作戦となりかねない事態をぎりぎりで回避しています。
その条件は
・徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
・徳川慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
・武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
・城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
・江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
・暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
というものでした。
この日、京では天皇が諸臣を従えて自ら天神地祇の前で誓う形式で五箇条の御誓文が発布されているので、慶応4年元日に遡って明治元年となっています。
江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地 DATA
名称 | 江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地/えどかいじょう さいごうなんしゅう かつかいしゅうかいけんのち Monument of meeting place, Takamori Saigo and Kaishu Katsu |
所在地 | 東京都港区芝5-33 |
関連HP | 港区産業観光ネットワーク |
電車・バスで | JR田町駅から徒歩3分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 港区産業振興課TEL:03-3578-2111 |
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