港区南麻布の高台(淀橋台)から台地下へという傾斜地を利用した公園。江戸時代には南部藩(盛岡藩)下屋敷だった地。明治中期から有栖川宮邸地となり、その後、高松宮家所有を経て、東京市に下賜されて有栖川宮記念公園、北側は東京府養正館となりました。東京府養正館の土地には、現在、都立中央図書館が建っています。
池泉の場所は江戸時代の大名庭園とまったく同じ!
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江戸時代初めの延宝年間(1673年〜1681年)頃までに南部藩南部氏が下屋敷を構えた地。
淀橋台(下末吉段丘)と呼ばれる台地は侵食による谷を形成しており、その谷と湧水を活かして大名庭園を作庭したと推測されます。
江戸時代の図面と現在の池の位置を比べても同じなので、池は大名庭園時代の名残といえるのです。
明治29年、有栖川宮威仁親王が一帯の土地を購入し、威仁親王の生母(有栖川宮幟仁親王の側室)・森則子の住居などが建築されました。
大正2年に有栖川宮家が断絶したため、高松宮家がこの土地を継承。
高松宮家は、児童福祉と教育の見地から、有栖川宮の没後20年の命日にちなん昭和9年1月5日に東京市に寄贈しました。
「本園は地形上2部に分れ、東部丘陵地は若干の常緑樹を有する落葉樹の密林にて西北部は閑雅 なる峡谷、崖地と池沼より成り、杉、松樹多く往時庭園たりし面影が残って居るので在来の地形を利用し、現存樹林を主景として国風の自然的林泉公園として造園設計を建てたのである」(昭和9年東京市発行の開園パンフレット)
開園当初の樹木は、75種4900本と記録されていますが、その樹木は大きく茂り、巨木となってさらに深閑とした森と渓谷を形成しています。
公園内に建つ有栖川宮熾仁親王騎馬像(ありすがわのみやたるひとしんのうきばぞう)は、明治36年、近代彫刻の先駆者である大熊氏広(おおくまうじひろ/足立郡中居村八幡木=現・川口市八幡木出身)作で三宅坂にあった参謀本部前に設置されたもの。昭和37年に道路拡張が行なわれ、ゆかりのある有栖川宮記念公園に移設されたのです。
[colwrap] [col2][/col2] [col2][/col2] [/colwrap]江戸切絵図に見る 南部藩(盛岡藩)下屋敷
麻布十番、元麻布、南麻布界隈の道路状況は、大使館の町となった今も江戸時代とあまり変わりません。
とくに善福寺などの寺の位置は、現在の地図との対比に大きな手がかりとなります。
江戸切絵図が出版されたのは幕末の1850(嘉永3)年。
南部美濃守(なんぶみののかみ)とあるのは南部藩(盛岡藩)第14代藩主・南部利剛(なんぶとしひさ)。前年に将軍・徳川家慶にお目見えし、美濃守となっています。
有栖川宮記念公園 | |
名称 | 有栖川宮記念公園/ありすがわのみやきねんこうえん |
所在地 | 東京都港区南麻布5-7-29 |
関連HP | 有栖川宮記念公園公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ日比谷線広尾駅から徒歩3分 |
問い合わせ | 港区街づくり支援部土木施設管理課 TEL:03-3578-2111 |
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