カテゴリー
大田区 見る

大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)

日本で初めて考古学としての科学的調査が行なわれた遺跡といわれる大森貝塚。明治10年、新橋へ向かう汽車の窓から、アメリカ人動物学者のE.S.モース博士が、貝殻の堆積している場所を発見。まもなく調査が行なわれ、これが日本の近代的考古学の出発点となったとか。品川区内の遺跡一帯が大森貝塚遺跡庭園(国の史跡)です。

大森駅を発掘調査の起点としたのが大森貝塚の名の由来!?

Shell Mounds of Omoriに掲載の発掘当初の大森貝塚

エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse/1838年~1925年)が発見した大森貝塚は、縄文文化後期から晩期にかけて(3500年〜2400年前)の貝塚。

モースは、明治10年6月17日、日本近海に生息するシャミセンガイなど腕足動物(わんそくどうぶつ=2枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物)の研究のため来日し、明治10年6月19日、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見したのです。

明治10年9月〜12月には日本初の科学的な発掘調査が行なわれ、明治12年、日本初の発掘報告書となる“Shell Mounds of Omori”と和文版『大森介嘘古物編』を出版。このことから大森貝塚は、「日本考古学発祥の地」となっています。

土器214点、土版6点、骨角器23点、石器9点、貝9点の全261点の遺物が出土し、そのうち165点が後に国の重要文化財に指定されています(出土品は東京大学が保管)。

モースたちは東海道本線大森駅を発掘調査の起点とし、発掘当初は大森村と推測していたため(実際は大井村)、大森貝塚という名称が生まれました。

遺跡庭園はモースの故郷・ポートランド市との姉妹提携で誕生

大森貝塚遺跡庭園は、モース生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携締結を記念して昭和60年に開園したもの。

品川区内の遺跡一帯が大森貝塚遺跡庭園(国指定史跡)となっており、園内では保存された貝塚標本(剥離標本)から貝殻が堆積している様子を実際に見ることもできます。
さらに昭和4年に立てられた「大森貝塚碑」や、モースの銅像なども配されています。
「大森貝塚碑」は、大阪毎日新聞社社長で考古学者の本山彦一が発起人となり、児島惟謙邸に立てられたもの。

また、昭和59年、平成5年の大森貝塚遺跡庭園の整備に向けての調査で発掘された遺物の一部は、品川歴史館に展示されています。
平成5年の調査では貝層のほかにも6軒の住居跡が確認されています。

ちなみに、明治6年、外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト(幕末史に名を刻んだ「シーボルト事件」で有名なシーボルトの次男)は、「東京〜横浜間にある貝塚」から石斧と石鏃を発掘してコペンハーゲン国立博物館館長に寄贈した記録があるため、実はシーボルトが大森貝塚の発見者で、モースよりも前にナウマン(Heinrich Edmund Naumann)が注目していたことが判明しています。

モースは、『ネイチャー』1877年11月19日号に、1877年9月21日付としてモース自身が大森貝塚を発見したという記事を投稿。
モースがかなり名声にこだわる人物だったことがわかります。

[colwrap] [col2]
大森貝塚遺跡庭園にあるモースの像
[/col2] [col2]
JR大森駅ホームにある「日本考古学発祥の地」碑
[/col2] [/colwrap]

縄文時代は、常緑広葉樹の広がる海岸だった

縄文時代には、台地の近くまで遠浅の海岸が迫っており、さらに現在の大田区と品川区の区境には小川が流れていました。
この小川を水源にし日常生活を営んでいたのです。

周辺にはシラカシ、アカガシ、スダジイ、タブノキ、ヤブツバキといった常緑広葉樹の森が広がり、その実をアク抜きして食用にしていたのです。ジネンジョとまぜて焼いたら、縄文時代のクレープが誕生します。

女性や子どもたちは海岸でハマグリやアサリ、さらには海藻を採取。男たちは小舟でアジ、スズキ、クロダイを採りました。
シカやイノシシなどの狩猟も行なっていたこともわかっています。

大森貝塚と呼ばれる集落跡ですが、この集落には最大30人ほどが暮らし、縄文時代といっても遠くは利根川下流、霞ヶ浦などとの交流の可能性も大いに有り得るとのことです。

[colwrap] [col2]
貝塚をモチーフにした地層の回廊
[/col2] [col2]
貝層の剥離標本
[/col2] [/colwrap]

実は2つある大森貝塚

実は品川区にある大森貝塚遺跡公園のほか、大田区側に「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書」と記された「大森貝墟」があり、横を東海道本線が走ることからいかにもこちらが大森貝塚という雰囲気になっています。

モースの発掘調査の記録には大森村と記されていたため、長い間、品川区説と大田区説(大田区山王1)という2つの説があったのです。

東京府がら「大井村2960番地字鹿島谷」(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者(地主・殿村平右衛門)に土地の補償費として50円を支払った記録が発見され、さらに大田区側からはめぼしい遺物が発見されていないため、現在では品川区側だったことが判明しています。

[colwrap] [col2]
理学博士・佐々木忠次郎筆の大田区側の碑
[/col2] [col2]
品川区側にある大森貝塚の碑
[/col2] [/colwrap]
大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)
名称 大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)/おおもりかいづか(おおもりかいづかいせきていえん)
所在地 東京都品川区大井6-21-6
関連HP 品川歴史館公式ホームページ
電車・バスで JR大森駅山王口から徒歩5分
ドライブで 首都高速鈴ケ森ランプから約2.5km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 品川区立品川歴史館 TEL:03-3777-4060/FAX:03-3778-2615
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
[kanren postid=”4992,4998″] 

作成者: プレスマンユニオン編集部

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください! 

モバイルバージョンを終了