新聞誕生の地

日本における新聞誕生の地

横浜中華街の一画、横浜中華学院脇を通る関帝廟通り沿いに立つのが「日本における新聞誕生の地」碑。この場所で元治元年(1864年)6月28日、ジョセフ・ヒコ(ジョセフ彦=浜田彦蔵)が、外国新聞を翻訳編集し、日本初の邦字新聞『海外新聞』を発刊しています。

紀伊半島沖で難破し、アメリカ国民になった浜田彦蔵

ジョセフ・ヒコ
ジョセフ・ヒコ

浜田彦蔵は、天保8年8月21日(1837年9月20日)、播磨国加古郡阿閇村古宮(現・兵庫県加古郡播磨町)で生誕。
嘉永4年10月29日(1851年11月22日)、栄力丸で江戸に向かう航海中、紀伊半島の大王岬沖の海の難所で難破。
嘉永4年12月21日(1852年1月12日)に南鳥島沖でアメリカの商船・オークランド号に発見され、サンフランシスコに滞在。
その後、香港で東インド艦隊長官・ペリーの船に同乗して日本に帰還する予定でしたが、ペリーが到着しなかったこと、外交のカードとなることを嫌って、アメリカに戻り、ニューヨークで生活。
嘉永6年8月13日(1853年9月15日)には日本人としては初のアメリカ大統領(第12代フランクリン・ピアース大統領)と面談しています。
カトリックの洗礼を受け、日本の開国を知るも、帰化してアメリカ国民に。

安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、9年ぶりの帰国を果たしています。
開国したといっても尊皇攘夷思想がはびこる日本では身の危険があるため(翌年に桜田門外の変が勃発)、再びアメリカに戻り、エイブラハム・リンカーン大統領とも会見しています。

居留地141番で日本初の邦字新聞を発刊

新聞誕生の地
新聞誕生の地

その後、領事館通訳として日本に滞在しますが、文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を辞して、横浜の外国人居留地で商売を開始。

ヘボンが当時手がけていた『和英語林集成』の編纂を手伝う岸田吟香(きしだぎんこう)の協力も得て、『海外新聞』の発刊にこぎつけます。
日本の近代化には庶民の意識改革が重要という考えから、新聞発刊に至ったのだとか。
その発行場所が、居留地141番(現・横浜市中区山下町141)で、現在は道沿いに「日本における新聞誕生の地」碑が立っています。
発行当初は手書きでしたが、後に木版印刷を用い、2年間で26号まで発行しています。
「童子にも読める」新聞精神を提唱しましたが、赤字続きで廃刊となっています。

明治維新後は、大阪造幣局の創設に尽力し、大蔵省に勤務。
明治30年12月12日に没。
当時は、日本人に戻るという法制度がなかったため、アメリカ人として青山の外国人墓地に「浄世夫彦」(青山霊園南01種イ04)の名で葬られています。

神戸市の能福寺の本堂前には、「ジョセフ・ヒコの英文碑」(「能福寺の由来碑」)が立っています。
浜田彦蔵が、明治時代に兵庫大仏に訪れる外国人向けに刻んだ英文の縁起で、日本初の英文碑となっています。

新聞誕生の地 DATA

名称 新聞誕生の地/しんぶんたんじょうのち
Place of newspaper birth in Japan
所在地 神奈川県横浜市中区山下町
電車・バスで 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩7分、またはJR石川町駅から徒歩7分
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ランプから約700m
駐車場 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)など利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
 

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