【知られざる千葉】習志野市は「ソーセージ発祥の地」!?

習志野市は、「ソーセージ発祥の地」をPRし、習志野商工会議所では、ドイツ式ソーセージの製造法が習志野市内で伝えられたという歴史的事実とレシピを元に、現代風に食べやすくアレンジして「習志野ソーセージ」を復活させています。なぜ習志野市が「ソーセージ発祥の地」なのでしょうか!?

習志野にドイツ人捕虜収容所があった!

話は、第一次世界大戦の青島(チンタオ)陥落にまで遡ります。
日本は日英同盟に基づいて、大正3年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し、ドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略。ドイツ兵4700名余を捕虜として確保し、徳島県板東など12か所の収容所に送ります。板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)には1000名の捕虜が送られて、バウムクーヘンなどが日本に伝えられています。

国内に設けられた12ヶ所の収容所のうち、1ヶ所が現在の習志野市にありました。
千葉県千葉郡幕張町実籾(現・習志野市東習志野)の陸軍習志野演習場には、大正4年9月から大正9年1月までの間、第一次世界大戦中に日本の捕虜となったドイツ兵約1000人を収容する「習志野俘虜収容所」(ならしのふりょしゅうようじょ)が設けられたのです。
収容所長は西郷隆盛の子・西郷寅太郎が務めていました。

収容棟と収容棟の間には菜園が作られ、ビールやワインの醸造も行なわれていました。「習志野捕虜オーケストラ」も組織されるなど、映画『バルトの楽園』で一躍有名になった板東俘虜収容所同様に比較的自由な捕虜生活を送っています。

大正7年、高栄養価食品としてソーセージに注目していた農商務省は、ドイツ・ザールフェルト(Saalfeld)で肉屋に勤めていたカール・ヤーン(Karl Jahn)、ソーセージ職人のカール・ブッチングハウス(Karl Büttinghaus)ら5人が、実際に収容所内でソーセージを製造していることを知り、千葉県千葉郡都村(現・千葉市中央区青葉町「青葉の森公園」)に新設した農商務省畜産試験場の飯田吉英(いいだよしふさ)技師を収容所に派遣。カール・ヤーン氏たちからソーセージ製造のレシピを学びました。
このソーセージ製造技術が、農商務省が開催した講習会を通じ、日本全国の食肉加工業者たちに伝わっていったのです。

習志野ソーセージ

ソーセージ発祥は横浜!?

「ソーセージ(Sausage)と云ふ言葉は英語であって、佛國ではソーシーズ(Soucisse)、獨逸では(Wurst)ヴオスト(中略)と呼んで居る。従来我が国では腸詰と呼んで居たが、この腸詰と云う言葉は潔癖ある我國人には適していない。やはりこれは英語読みにソーセージと云ふ方が感じが好く又通りが好い様である。支那では香腸と呼んで居る。我國でソーセージを製造し始めたのは横浜在留の外人で、明治20年頃から漸次京濱間の内外人の間に売込まるるようになった。一般の人が着目する様になったのは全く最近の事實でこれは日独戦争後独逸俘虜の在留するものが製造を開始したることが大なる動機である」
(飯田吉英「肉食問題の解決とソーセージ」/『畜産と畜産工芸』第10巻11号・大正13年より)

農商務省畜産試験場の飯田吉英も「我國でソーセージを製造し始めたのは横浜在留の外人」とキッパリと断言しているように、ソーセージの発祥は、横浜。しかも明治45年、外国船のコックだったドイツ人マーテンヘルツ(Martin Herz)が、横浜中華街の「江戸清」で修行した大木市蔵にドイツ式ソーセージの製法を伝授。大木市蔵は「日本のソーセージの父」といわれています。

横浜と木更津。東京湾を隔てて、発祥の地論争が起こりそうですが、国が音頭を取って普及に尽力したのは、やはり、習志野俘虜収容所のドイツ人のレシピから。当時、ドイツには厳格なギルトの制度があり、ソーセージの製法も「秘伝」だったとか。

腸の洗浄法と、防腐作用もある香辛料のブレンド具合などは、習志野で「秘伝」が開示されて国内に普及したと思われるのです。
というわけで、ひとまずは、習志野市は「ソーセージ普及きっかけの地」。

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酒井正人(プレスマンユニオン理事)

ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。