駒形橋

吉原通いの遊び人が使う代表的な渡しだったのが隅田川にあった「駒形の渡し」。黄昏(たそがれ)時に、舟を降りた粋人が、土産の紅などを購入して吉原へ向かいました。そんな「駒形の渡し」ですが、関東大震災後の復興計画で、昭和2年6月25日に駒形橋が架かり、渡し舟は廃止となりました。

橋の名は橋の袂に駒形堂があることに由来

竣工当時の駒形橋
竣工当時の駒形橋

駒形橋という橋の名の由来は、橋の袂、かつては渡し舟の乗り場近くに駒形堂があるから。実はこのお堂、浅草寺の堂宇のひとつですが、この場所が、浅草寺縁起で伝わる浅草寺本尊・観世音菩薩が示現された場所。
つまりは、「観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地」というわけなのです。

駒形橋は、鋼アーチ橋で、橋長149.62m、幅員22.0m。設計は東京市復興局橋梁課・岩切良助です。建設を請け負ったのは、鉄道車両メーカーの汽車製造。
隅田川には19橋の橋が架かけられていますが、関東大震災の復興を目的に、帝都復興局と東京市が建造、架け替えを行なった隅田川橋梁群(白髭橋、桜橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋)は、歴史的橋梁と呼ばれています。

大正末期から昭和初期の最先端の橋梁技術やデザインが用いられ、それぞれ異なる個性的な橋が隅田川に架けられました。同時期に架けられながら橋のデザインが違うのは、予算の軽減より、橋梁群としての全体の景観を優先したから。
「デザイン、地域環境優先」という粋な都市計画を感じられるのです。

伊達綱宗と駒形の渡し
仙台藩62万石の大名・伊達綱宗(だてつなむね)は、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主として歴史に名を刻んでいます。伊達政宗の孫にあたる綱宗ですが、駒形の渡しを使って、吉原通い(舟は隅田川を上流へ遡り、山谷堀から吉原へと入り込みました)。当時人気ナンバーワンの花魁・2代目高尾太夫(たかおだゆう=万治高尾)に一目惚れ。以来、連日連夜吉原に通い詰め、高尾太夫から「君はいま 駒形あたり ほととぎす」なんて恋文の句をもらって有頂天に。仙台藩では綱宗を蟄居させ、急遽2歳の綱村を藩主にします。綱村の大叔父にあたる一関藩主・伊達宗勝が後見人。ところが宗勝一派の専横ぶりを反宗勝派の伊達安芸らが反発し、ついには幕府に上訴した一連の騒動と流血事件が有名な「伊達騒動」です。昭和45年のNHK大河ドラマ『樅の木は残った』(原作:山本周五郎、主演:平幹二朗)で有名。伊達綱宗の吉原通いが、大きな大騒動を生み出したわけです。

伊達綱宗

歌川広重『名所江戸百景 駒形堂吾妻橋』

歌川広重『名所江戸百景 駒形堂吾妻橋』
歌川広重『名所江戸百景 駒形堂吾妻橋』

左下隅に描かれているのが浅草寺のルーツでもある駒形堂。江戸時代、駒形堂の近くの隅田川沿いには材木屋が数多くあり、図の右隅には、立てかけて貯木された木材が描かれています。
赤い布は、駒形堂の筋向いの白粉や紅など化粧品を売る小間物問屋の宣伝の旗。ここで紅や白粉を買って吉原の花魁(おいらん)や遊女の土産にしたのです。
左隅に描かれた橋は、当時すでに架橋されていた吾妻橋。

吾妻橋・駒形・浅草周辺古地図
吾妻橋・駒形・浅草周辺古地図

 

駒形橋
名称 駒形橋/こまがたばし
所在地 東京都台東区雷門2丁目地内・墨田区東駒形1丁目地内
電車・バスで 都営地下鉄浅草線浅草駅から徒歩1分。東京メトロ銀座線・東武スカイツリーライン・つくばエクスプレス浅草駅から徒歩4分
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